学問をめぐる情報環境の変貌

 本邦「人文系」是非論、言われても致し方ないと思う昨今のワヤ露呈具合ではあるし、おっちゃん基本的に同様の指摘を30年以上前からずっと、半径民俗学界隈足場で言うてきとるからいまさら何も驚かんが、ただ、だからこそ問題の切り分けは必要やとおも。

 ただな、昨今のそれこそ「アカデミア」wとか臆面なく口にして好んで蠱毒化合戦するような人がたにゃ、おっちゃんの言うような「開かれた学問≒教養」の失地回復みたいな大風呂敷からの逆落としな能書きはうまく通じんどころか、そもそも(∩´-ω-)アーアーキコエナーイ になるものらしくて、な……

 「議論」や「論争」と称されるものも、そういう界隈デフォになってこのかた、要は界隈の視野に入る範囲での「ゲーム」的なやりとりでしかなくなっとるように見えて、〈それ以外〉の世間一般その他おおぜいにどう見られとるか、そこと共に共有し得る言葉になっとるのか、などは初手から考慮外らしく。

 自分らが「そういうもの」と勝手に思うとる半径の、それこそ「アカデミア」wな世間を自明の盤面にした上で、その内側でだけ「効率的」「生産的」にアラ探しと重箱の隅のつつきあいを全力リソース傾けてやる、それが「専門性」ある「プロ」のしぐさだ、的斜め上自意識肥大で身動きとれんように見える。

 かつてある時期まで言われてたような意味と内実での「アカデミズムとジャーナリズム」の議論にしても、「ジャーナリズム」という〈それ以外〉との連絡通路を持たにゃ学問・学界は世間から乖離したままで「役に立たない」という危機感が下地にあってのことだったわけで、な。

 特にいわゆる人文(社会)系は、言葉自体が世間一般に向けて地続きに開かれてるのが良くも悪くも前提になっとるはずだから、いわゆる理科系のガチ「科学」領域よりずっとそのへん敏感に自ら制御しようとしとかにゃなんぼでもワヤな蠱毒化してゆくわな、という程度の自覚はある程度共通理解だったんだが。

 まあ、そういう自問自答が自然に出てこざるを得ない程度に戦後の過程、高度成長期以降の情報環境の変貌とそれに伴う大衆化の様相が、本邦「学術研究」をめぐる生態系を否応なく激変させてきたってことでもあって、その意味じゃ当時は理科系とて、決して他人事にはしとらん/できんかった問いなんだわ。

 前も触れたが、60年代初頭あたりだと、分野によっちゃ『世界』『思想』に書くのも「ジャーナリズムに媚びた堕落」とか言われて糾弾されとったりしとってな。まして『朝日ジャーナル』なんざ論外の沙汰、とかな。

 このへんこれも前から言うとる、一般の「読書人」「本読み層」が一気に拡大伸張して、「教養」という「趣味」の脈絡で「読書」をする消費者読者がとんでもなく拡がった、それを下支えにして本邦「学術研究」のありようも変わってゆかざるを得なくなったんだわな、出版やメディア状況の変貌との関連で。

 民俗学(的なるもの) なんざその過程で「上へ向かって勘違い&堕落」していった最たるものだったわけでな。「歴史」や「考古」などまでひっくるめて、そういう意味での学問的知見の大衆化一般化通俗化の過程から逃れられた本邦人文(社会) 系なんざ、事実上存在しなかったんじゃなからうか。

 昨今ようやく良い意味で「まっとうに」とりあげられるようになった(同時に新たなワヤもはらんでいるがそれはともかく)いわゆる「偽史」界隈のお題にしても、「学術研究」の側からそういう学問的知見の大衆化一般化通俗化の過程が(∩ ゚д゚)アーアーキコエナーイ のままだった、その結果なんだわな。

 「司馬史観」にしても同様で、司馬遼太郎(だけじゃないが)が爆発的に売れて、広汎な読者を獲得していった過程で、まともにそれを「歴史」に関する学術研究と関わる〈いま・ここ〉の課題としてとらえられる感覚や視野を、当時の「アカデミア」wの「専門家」が概ね持てなかったんだわな。

 だったら、それはなぜだったのか、という問いが出てくるのがあたりまえだろうし、それもまた、いや、それこそが、とおっちゃんは言いたいが、何にせよ本来的な意味での「歴史」と〈いま・ここ〉の問題、日本語を母語とする環境での自分ごととしての問い、なんだとずっと思ってきたんだが、な。

 TL流れてきとった、主婦が大学院通うのがどうこう、てなお題もな、なんでそんなに双方青筋立てにゃならんのか、全くわからんのよ。てか、「素人」(だろ、要は)拒絶して弾くようなジャンルは、先行き必ず枯れてゆくってのはおまえら、もう同時代的知恵として共有しとったんやないんかい、と。

 主婦だろうがおたくだろうがひきこもりだろうが変態だろうが人外だろうが、「興味ある」「関心持つ」ことからそういうことをオープンに話したり考えたりできそうな場所に近寄ってくるのは、とりあえずあり、にしとくのが作法なんと違うん?

 「大学院はカルチャー・センターではない」とか、そんなハナシにもなっとったようだが、それ、カルチャー・センターをバカにしとらんか? できるもんならカルチャー・センター、ちゃんと「持続可能な」形でやれるもんならやってみ? いまどきのこういう状況&環境で、そこらの「大学or大学院」で。