人文系煮崩れの責任世代

 自分などと同世代同年代で素直に大学教員になれた人がたがここにきて軒並み定年前後になっとるということは、ここ10年~20年の大学教育や学界の中堅~幹部級だったわけで、一気に可視化されてきた本邦人文系の煮崩れのその過程に最も責任あった層だと言われてもひとまず致し方ないとおも。

 大綱化と重点化の結果一気に増えた「入院」物件をいきなり指導せにゃならん現場に直面した層でもあるわけで、自分は外道ゆえ院生の指導をほぼ経験せんまま過ごしたけれども、当初津波のように押し寄せた「入院」物件を、しかも課程博士で論文書かせろの重圧の中、いろいろワヤはやらかしたろうな、と。

 なのに、そのへんの自戒や自省の類、別に韜晦や自虐でもいいが、誠実に言語化しようとしているのを見かけたことが、少なくとも半径自分の見聞だとあまりないのは、単に自分がもの知らずというだけなのか、それともそういうある種の「公共」への「責任」感自体が剥離してしまっとるゆえなのか。

 たとえば、次々に現われる「新進気鋭」な若い衆世代物件のそれぞれに「指導」した教員は当然いたはずだし、製造者責任的なものも程度の差はあれ自覚されるべきだと自分は思うとるんだが、その立場の教員はもとより、当の「新進気鋭」の側にもそういう「指導する/される」感覚から希薄化しとるような。

 なのに、あの「アカデミア」とか「師匠」「弟子」とか「指導教官」とか「査読」とか、いずれそういう語彙だけが、実態はすでにポストをめぐり利権共同体でしかなくなっているそういう世間から乖離してしまっているのにも拘わらず、あるいはまただからこそ、高圧的な意味を伴い流通しているという、な。