「自己責任」大正義と「身を守る」大正義の癒着

 いわゆる「自己責任」論を「正義」として実装してしまって振り回したがる人がた、リクツとしての「正しさ」に与しているというだけでなく、どこかでもっと素朴で野蛮な「キモチいい」ところも必ずあるように見える。

 なんだろ、それってかつて「保守」と言挙げすることに、思想論壇界隈で忌避感ありありだった頃に、「あえて」そう言ってみる、その際の高揚感みたいなものにも近いのかな、そしてそれって昨今のあの「逆張り」「冷笑」の最も悪い意味での蔓延などにもつながっていたりするのかな、とかいろいろ要検討。

 出てきた頃の呉智英夫子が「封建主義」とわざわざ「(笑)」的な気分と共に言挙げしていたこと、なども含めて。

 ただ、昨今の「自己責任」論大正義実装な方々は、その「(笑)」的な留保や、それあってこそ初めて道具として手にあう役立つものになっていたあたりの機微がほぼ喪失されとって、それこそ「シャレならん」本気でガチの酷薄さむき出しになっとるように見える。

 しかも、そのことにほぼ無自覚らしいことなども含めて、いろいろと……

 それって、氷河期ロスジェネ世代の「勝ち組」のあのシャレならん酷薄さ、薄笑いで身内同士うなずきあいながら「正義」としての虐殺を天然自然に淡々と命じてみせるような、そろそろあれこれ可視化されてきとる反社会的行状にも通じとらんかったら幸い、なんだが、な。

 自分がそんなに恵まれた立ち位置にあるわけでもない、でもだからこそそういう酷薄さ、「自己責任」大正義に前のめりに実装してしまうところもあるはずで、それもまた「身を守る」といういまどき前景化されてきとる「もうひとつの正義」によって即座に正当化もされとるらしく。

 「身を守る」大正義は、「自己責任」大正義とどうやら表裏一体になるものらしく。

 おっかないな、と心底思うのは、ほんとに「勝ち組」な人がたの口にするそういう「自己責任」大正義ですら「身を守る」大正義と表裏一体になっていて、そのココロのたてつけは、勝ち組/負け組不問である世代以降の本邦その他おおぜいにとっての「そういうもの」になり始めているように見えること。

 社会的な無視、抹殺の類が、決してそのような装いや見てくれを伴わず、まさに「そういうもの」として淡々と、まさに「システム」wとしての意志において「だけ」執行されるようになり始めているのかもしれんことは、たかだか自分事ながらあの「懲戒解雇」沙汰の経緯においても実感していた。

 「キャンセル・カルチャー」とか、きれいごとカタカナ語彙にまぶしてもっともらしく見せとるけど、要するに「そういうこと」だとおも。