少女漫画の「それから先」をめぐって・雑感

 たぶん少女漫画の穏当化、はっきり言えば衰退と逃避は、現実の少女たちが援助交際という売春を始め、それを描くことができなかった、許されなかったという時点で宿命づけられていた。その後の援交がファッションではなく、精神疾患や現代の貧困と結びつくようになり、より扱えなくなってしまった。


 少年漫画はそういった現実の性の扱いをせず、というか少年が性をめぐるリアルの蚊帳の外であったので、同時代性がなくても続けられた。少年たちはふわふわした夢の世界で生きられたし、読者層も、もうその夢のほうがええわとなっていく。


 個人的には、少女漫画の正当後継者は青年漫画の「闇金ウシジマくん」となる。作品内に時たま顔を出す、残酷で非情な人でもそれに徹することは本人を傷つけるというポエジーにそれが見える。


 「闇金ウシジマくん」には、90年代に発見された、傷つくべき自己など存在しないという実際の人々の同類が多く出る。だけど、その酷薄な世界の酷薄な人物であろうと、傷つく感性がある、というのは少女漫画的見地だろう。そういった感性は他にあまり継承されていない。敵は悪いやつ、で処理される。


 反応が多かったので、補助論。少女たちにとって、自分たちの現実や先を描けない束縛を受けた少女漫画は必要なくなる。そして少女漫画の生存の道は、少年と同じ程度に現実から疎外された少女に向け、少年漫画的な同時代性なきファンタジーの提供となる。両者は今、同じロジックで動いていると思われる。

 用語やもの言いなどはともかく、言いたいことはいろいろ派生的な問いを引き出してくれるものだと思う。何より、あの「闇金ウシジマくん」が「少女漫画の正当後継者」であり、それは「他にあまり継承されていない」という視点は、まず素朴に眼を引く。だから余計に、少し立ち止まって留保しながら読まねばならないと思わせる。Twitterのわずかな字数の間尺での、そしてまた断片的で備忘的な記述を書き散らしてゆくような、その意味できわめて散文的でもあるような記述のあり方においてはなおのこと。

 「少年漫画」という枠組みにおける「少年」の問題については、かの橋本治の未完の逸品『熱血シュークリーム』があるし、もちろんその前提となっていた『花咲く乙女たちのキンピラゴボウ』上下二巻も含めて、本邦戦後マンガのセクシュアリティの包摂のされ方など含めての基礎文献になっているわけだが、それはそれとして、「少年漫画」一般がここで言われているような「性をめぐるリアルの蚊帳の外であった」かどうかについては、橋本の所論とは別に、まず留保しておかねばならないかも知れない。

 そもそも、この筆者にとっての「少女漫画」というもの言いの内実が、ちょっと独特らしいことが看てとれる。「ポエジー」というもの言いあたりに、そのへんの込められた含意の一部が察知できるような。いずれにせよ、そのへんからとりあえず腑分けしておかないと、うまく読めない。

 それは「酷薄な世界の住人であろうと、傷つく感性がある」という「少女漫画的見地」というくだりに連なってゆく。それなら「少年漫画」についてその前の部分で言われている「ふわふわした夢の世界」と同じじゃないか、と思うのだが、どうもそこは別のものとして分けて考えているらしいあたりが、立ち止まって留保しておくべきポイントのように思う。

 筆者には、「少女漫画」とは「自分たちの現実や先」を「描けない束縛を受けた」表現ないしはジャンルだった、といった認識があるらしい。そこで想定されているのは、いわゆる24年組的なイノベーションを経た後の、昨今一般的な意味で使われがちな「少女漫画」に特に合焦した意味あいでもどうやらなく、それ以前の女の子向けの定型的で、その分「民話」的たてつけの裡にあったとも言える、24年組以前の古いタイプの少女漫画なども共に含めての意味あいのように読み取れる。その限りで、24年組的な少女漫画のイノベーションを画期として語るような、これもある時期以降のスタンダードな「戦後日本マンガ史」的史観自体もまた、ここでは批判的に乗り越えられるべき対象になっているように感じられる、良くも悪くも、そしてまた意識的なものかそうでないかなども、とりあえず別にして。

 ここで「自分たちの現実や先(将来という意味か)」と言っているそのもの言いの内実には、どうやら性的な領分、セクシュアリティやそれを介した自己のあり方などを対象化し、創作の裡に主題化してゆくようなモメント、といったニュアンスが込められているように見える。それは「束縛」として少女漫画というジャンル自体に作用してきていて、しかしそれはある時期から解き放たれてしまい、その結果、少女もまた「少年と同じ程度に現実から疎外された」存在になってしまった、と。このような意味での「現実」というのが、性的な領分やそれも含めた自己のあり方について対象化し認識するという意味での、言わば「成熟」なり「大人になること」なりと紐付けられているのだとしたら、これらの文脈での「自分たちの現実や先(≒将来)」というもの言いに込められたらしい内実と、そこから規定されてくる「少年漫画」「少女漫画」が共に「現実から疎外された」存在を前提にした表現である、という認識までも、ひとまず論理的な糸でかがりあわされていることにはなる。

 「性をめぐるリアルの蚊帳の外」であったゆえに成り立っていたと筆者の指摘する「ふわふわした夢の世界」が「少年漫画」の描くものであったという前提の是非は措いておくとして、この指摘の文脈に沿った理解をしようとするならば、「90年代に発見された、傷つくべき自己など存在しない」「酷薄な世界」と「酷薄な人物」によって成り立っているその当時以降の「少年漫画」は「敵は悪いやつ、で処理される」のが定型であり、そこに敵ならではの内面やそのような同じ内面を持った存在として自己を投影する(だから葛藤したり悩んだり傷ついたりする)こともない、という認識が示されている創作物になる。

 そのような解釈があり得るとして、ならばそれ以前の少年漫画はどうだったのか。敵もまた同じ現実の存在であり、同じように内面を持ち「情」もあり、だから相互に何ものかを投映しあえるような存在という認識があったということなのか。だとしたら、それもまた「ふわふわした夢の世界」ということになるのか。

 筆者の認識をほどいてゆくと、どうやら「性をめぐるリアル」の有無が、その「ふわふわした夢の世界」であるか否かの分岐点になるらしい。そして、「90年代に発見された、傷つくべき自己など存在しない」「酷薄な世界」と「酷薄な人物」によって成り立つ作品世界も、「性をめぐるリアル」が介在していない限りにおいては、それまでと同じ「ふわふわした夢の世界」ということになる。

 そして、そのような「性をめぐるリアル」は、少女漫画においては「自分たちの現実や先を描けない」こととバーターだったという認識らしい。逆に言えば、「性をめぐるリアル」を視野におさめて合焦できるようになるならば、「自分たちの現実や先(≒将来)」も見通せるようになる、ということになる。

 「性をめぐるリアル」を獲得した、あるいはさせられたことで、少女たちが少女漫画を必要としていたような「束縛」はとりあえずなくなった。だからわざわざ少女漫画というたてつけを必要な状況もなくなっている。にも関わらず、未だかつての少女漫画のような「ポエジー」がうっかり顔を出してしまう「闇金ウシジマくん」は、一見90年代的な「酷薄な世界」と「酷薄な人物」によって成り立っているように見えていても、実はかつての少女漫画と地続きの、「性をめぐるリアル」の呪縛に未だ束縛された未だ「現実から疎外された」「同時代性なきファンタジー」なのであり、そのような意味において未だ少女漫画的なものの後継者なのだ、と。

 読み流し、ある程度の解読高度において処理してゆくべきTwitterのような環境での書かれたものに対して、このように立ち止まって留保し、速度を落として「おりる」ことからほぐしてゆくような野暮を敢えてやってみたのは、それだけひっかかるものがあったからであり、このような作業を試みることでその「ひっかかるもの」の輪郭を少しでも定着できるかもしれない、と思ったからだ。そして、それはひとまず間違っていなかったように感じる。

 筆者にとって、最も重要であり切実なのは「性をめぐるリアル」なのであり、それを創作物として作品世界にうまく反映し得ているような表現こそが最も〈リアル〉であるのだろう。少年漫画や少女漫画といった、便宜的な分類や定義、それらを前提にした「批評」「論考」「考察」「研究」沙汰などまで全部ひっくるめて、この筆者にとってはおそらく本質的に他人ごとであり、どうでもいいことなのだと思う、これは肯定的な意味において。そして、そのような本質的な意味での「批評性」をうっかり宿してしまっている断片という意味において。

 冒頭引用した以下の言も、そのような意味において改めて、その内実を「読む」ことがなされるべきだと思う。少女漫画というたてつけが、読み手として想定されていたはずの少女たちの〈いま・ここ〉から決定的に乖離するようになった、そうならざるを得なくなっていたことと、ここで言われているような意味での「性をめぐるリアル」との関係において。

 たぶん少女漫画の穏当化、はっきり言えば衰退と逃避は、現実の少女たちが援助交際という売春を始め、それを描くことができなかった、許されなかったという時点で宿命づけられていた。その後の援交がファッションではなく、精神疾患や現代の貧困と結びつくようになり、より扱えなくなってしまった。

 そしてこれは、何も少女漫画やマンガ表現一般に限らず、本邦の戦後の言語空間とそれを規定してきた情報環境の変貌の過程において、日本語を母語とし、それを自明の前提としてきた「文化」としてのありように関わる全ての表現について、言い得ることなのだろう、と思う。