立ち止まれない不自由と「優秀」さ・雑感

 いまさらながらに、なんではあるんだろうが、なんか近年、やたら「正義」や「真実」の類を、それも「たったひとつ」のものとして想定し、それ前提で性急に白黒決着つけたがるような人がたが増えてきたように感じるんだが、それって個々の性格や生育環境などとは別に、何というか、そもそも人間だの現実だのに対する認識自体からして、そういう窮屈 (「非寛容」てか?) 不自由が全面的に進行してきとる反映だったりするんじゃないかいな、と。立ち止まって考える、とか、ちょっと留保してみる、解釈しないでじっと眺めてみる、といった対応ができない、じきに「答」を見つけて性急に意味づけしようとする、しかも、それを「人より先に」表沙汰にしてすぐ「発信」しようとするし、それによる「承認」だけはとにかく最優先というマウンティング気質工場出荷設定。

 そういう気質、ある種の「優秀」さってのが有効に機能して役に立つ環境ってのもまあ、確かにあるんだろうし、また事実、ある時期までは現実にあり得もしたんだろう。ただ、そういう「優秀」さを限られた範囲に縛って能力善用する/させる仕掛け (以前の学校なり会社なり) 自体をゆるふわgdgdにしちまって受け皿をワヤにしちまったのに、それら気質だけが未だ受け継がれているという不毛。それは何度か触れたきたようないわゆる「ブラック」な環境がどうしてここまで一般化されちまってる (らしい) のか、という問いにも関わってくるように思う。
king-biscuit.hatenadiary.com
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 かのワタミ以下、「ブラック」企業のボスの言っていることそれ自体は、ひとつの道徳的なスローガンとしてはありだろうし、たとえば「カネよりやり甲斐が大事」的なもの言いにしてもなるほど、そういうものさしをひとつの人生訓みたいにする人がたというのも、程度の差はあれ現実に一定比率で存在するのだろうこともわかる。世の中というのはいつの時代もそのようなもの、その程度のものさしでそれなりに動いてゆくもの、というような意味での通俗的な処世訓的な意味においても。
 
 けれども、かつてある時期までは、そのような道徳的なスローガンや人生訓、処世訓みたいなもの言いが、実際にある組織や集団の求心力を維持する「実利」を伴うことができていたらしいこと、それらある意味では空虚でしかないようなはずの言葉を現実の日々の仕事や営み、それらを基盤にして成りたっている現実の水準において何らかの具体的な作用をもたらすような機序がどうやらあったらしかった気配について、さて、昨今のその「ブラック」環境の蔓延している〈いま・ここ〉からどのように自省してゆけるのか。敢えて言えば、本来の「歴史」の相において意味づけなおしてゆけるのか、と言うことになるのだろう。

 ひとつだけ備忘的に走り書きしておくならば、かつてある時期までのそれらスローガンを弄する人がたは、同じその口で身体で生身の実存を介した「関係」とその上に成りたつ「場」において、そのもの言いに見合うだけの何らかの「実利」や「福利」の類をそれなりに給付していただろうし、何よりもまずそれらもの言いの当否や妥当性などよりもはるか手前の自明の前提として、そういうもの言いを一般的な人生訓や処世訓といった響きを伴い弄することができるのは、必ずそれらに見合う「実利」や「福利」を全力であらゆる努力と共に与えることができる「力」を持つ立場にある人間だけである、という認識が岩盤のように、それらもの言いを口にする側と共にそれらを受け止める側にもまた等しく共有されていただろうことだ。「器量」や「貫禄」といった一見漠然としたもの言いにしても、それら前提が共有されていた上で初めて、ある確かな手ざわりや実感と共に共通認識として、ある種の共同幻想といったような意味においてもすんなり宿るようなものだったのだろう、そう思う。