おかんアート・考

 「おかんアート」の成り立つ環境。「何かの時に役に立つ」と思って確保しておいた何らかのブツ群が日常にたまっていること。空き箱空き瓶等、何らかの「器」的なもの。そういうブツをためこむ手癖習い性が身についているような「おかん」が作り出す環境。

 ある時期まではそれら「器」的なものは具体的に「役に立つ」局面がいくらでもあった。酒でも醤油でも買いに行く時、ちょっとしたお裾分けを隣近所にする時、何らかの「器」は「役に立つ」ものだったし必要だった。「器」であれば確保しておく習い性は日常を差配する「おかん」の間に刷り込まれていた。タバコの空き箱でも缶ビールの空き缶でも「器」としてまだ「使える」形態のまま「捨てる」ことは忍びないという感覚もあった。だから概ねそれらを潰したりして「器」として使用不能にして初めて捨てられるような感覚もどこかにあった。「おかん」はそれら「器」として「使える」ものをとっておいた。

 ところが日常生活でそれら「器」が「役に立つ」局面が少なくなり、なのに流通のありようの変化に伴い過剰包装や輸送の段階での利便化などが進んでそれら「器」的なブツらが身近にたまってゆくことも増えてゆき、「何かの役」に立たないままそこにあるそれら「器」的なブツが眼につくようになった。

 一方で「おかん」層の身についた習い性としての「手を動かすこと」もまた、料理裁縫掃除その他の「家事」から必要性が後退してゆき、習慣としての「手を動かすこと」だけが「役に立つ」局面を失って取り残されてゆく過程も戦後、高度成長期あたりから進展していった。「手芸」というそれまでもあったもの言いが、それら「おかん」層の行先を失った「手を動かすこと」の習い性を吸収する受け皿にもなってゆく。縫い物などの実利につながらないものをこさえる「手芸」が流行し、それらは「かわいい」「ファンシー」な飾りもの的「役に立つ」ものへと離陸させられてゆく。「何かの役に立つ」で確保する「器」的なブツに対する習い性と、「手を動かす」という習い性とがここにおいて手を結び、衣食住的な実利から離れた「かわいい」「ファンシー」的なものをこさえてゆくことで、それら「役に立つ」行先を失っていた習い性のはけ口を準備してゆくことになった。

 だから、それら「おかんアート」に使われる素材(ヤクルトのプラ容器やペットボトル、牛乳パックなど)は、小学生の図画工作でのつくりもの素材とも共通してくる。あるいは、例の「野良ぬこ除け」的「役に立つ」を付与されて一時期広まったペットボトルに水を入れて家のまわりに並べる「民俗」などとも。ゴミの分別回収が自治体レベルで制度化され整備されてゆくことで、それら「何かの時に役に立つ」で確保されていたものたちの「処理」の仕方もそれなりに整えられてゆき、「手を動かす」習い性もそちらの方向に動員されてゆくようにもなった。かくて「おかんアート」の全盛は過ぎ去ったかにも見えた。

 そんなところへ今度は「キャラ弁」がブレイクし始めた。「手を動かす」習い性の受け皿としての弁当づくり、それも旦那や自分のためでなく「子どものため」の弁当ということで、衣食住的な実利に加えて「子どもが喜ぶ」というそれまでと少し違う「役に立つ」が駆動エンジンとして設置されてきた。「かわいい」「ファンシー」という「実利」(の転換)だけではいまひとつ吸収しきれなかった「役に立つ」の落ち着かなさはここで「弁当」という圧倒的な「食」の実利の上に、さらに「子どもが喜ぶ」という「子ども」をダシにした正義を獲得することになったらしい。

 もちろん「キャラ弁」はそれをこさえる「ネオおかん」層自体も楽しんでいて、それは子どもと地続きの感覚なのだが、そこらへんはマンガやアニメ、ゲームなどを親≒おとなも子どもと地続きに、同じ感覚で楽しむことが当たり前になっていった状況とも関わってくるのだろう。さらに何よりも、インスタグラムなどSNS環境の整備と、そこに「画像」として「投稿」できることで「評価」が容易に得られる環境が準備されたこと。「ネオおかん」の承認欲求充足のためという「実利」もまた強力に後押しすることになるわけで、これは旧世代「おかん」たちの環境より格段の進展だろう。

 旧世代「おかん」たちも自らこさえた「おかんアート」を展示したり売ったりする機会を、例えば道の駅や公民館などを利用して作ってきているし、それもその世代なりの承認欲求充足という「実利」獲得の動きだったと言えるのだが、SNS環境の整備によるそれら「実利」の具体化はケタ違いに進んだと思う。