7pay問題と説明責任・メモ

 それを分かっているマトモな経営者は、だからこそ逆に「詰め腹を切るのは俺なんだから全部俺の言葉で説明できるようにお前ら全力で俺をレクしろ」って部下を全力でシバくんだよ。それならまったくもって正しい。そもそも自分が腹切る役って認識もねえクズだからこそ全然真剣にレクを受けないわけ。


 つうか率直に言うと、外野ですら「技術者を同席させてそいつに喋らせればいいのに」って認識の時点で「上役、経営者ってのは責任を取るためにいる、責任とは判断を下したという説明責任である」という意識がねえんだなぁジャップ企業&顧客、という印象。この客にしてこの企業あり。


 まぁ「いや経営者なんてこんなモンでしょ」っていう諦めが浸透してるってことだとは思うよ。でも本来は違うからね。


 これまだ「メインは経営者でも技術面は技術者に替わってもいいんじゃ」って言う人いるけど、違うんだよなぁ。ただの技術者じゃ事業の観点から「守る所・捨てる所」の判断ができないし責任も取れないんだよ。大体二段階認証とか、一般メディア相手にそんな技術者呼ぶレベルの回答求められてないっしょ。


 もちろん本来なら「技術が分かって経営側からも発言できる」役割としてCTOが出てきてもいいところだけど、キチンとそんな意識でCTO置けてる企業がどんだけあるかってのと、ホントにそんなCTOが置けてたらこんな大事故を起こさねえよというニワトリエッグな諸行無常デッドロックがね……


 要するに&大前提として、ああいう事故後の会見って技術的詳細の説明が第一義ではなく「事業経営者としてどうすんのか弁明する場」なので、それに必要な程度の技術は平素なり付け焼刃でもレクなりで身に着けないと話にならんってことです。些細な技術的な質問一つでも技術者じゃ代弁できないんですよ。

 この「責任とは判断を下したという説明責任である」という部分。なにげに大事で本質的なことをうっかり言ってしまっている感。

 説明責任なのだからそれは当然、ことばの問題になってくる。ことばによって説明する、誰に? もちろんそこらの世間、普通の人がたに向って。もっと言えば、そういう「公」に向って。

 そういう「公」としての世間というのは当然、ものすごく雑多で多様で何でもありで、だからあたりまえにわけのわからないものではある。理解なんかまともにしてくれるはずもなければ、そんなことする義理も本来ないっちゃない。まさに「その他おおぜい」であり「大衆」であり「ろくでもないもの」であるようなものだが、しかしそういう世間に向ってことばを駆使して「説明」しようとしなければならない、それこそが同じ社会、同じ世間に生きる「責任」である、ということになる。

 この「技術者」というのは「専門家」と置き換えてもいいだろう。てか、いまどきはそっちの方がよりわかりやすいかも知れない。何かという「専門家」を引っ張りだそうとする風潮があり、そしてそれはそのような「専門家」の語ることばをとにかく丸呑みにしてありがたいご託宣として受け止めようとしたがっている、そういうある種の横着のポピュリズムみたいなものが蔓延していることを察知させてくれるには十分な程度に、何かことが起こるたびに発動される「いまどきの世間の空気」になっている。

 「専門家」のことばはしかし、そのままで「公」のことばにならない。なるはずもなければ、なる道理もない。だって、それは彼ら「専門家」の間でだけ通用する方言みたいなものであり、まただからこそ有効性が飛び道具めいた鋭さと速度とで担保されもするのだろう。けれども、それは決してそのままで「公」のことば、世間一般その他おおぜいに通じるものではないし、そのまま放り出してはいけないものでもある。

 だからこそ、ここで言われている「経営者」という存在が、「技術者」「専門家」のことばの翻訳装置を実装した生身の主体のたたずまいありありな実存が必要になってくる。CEOとはそういう実存を伴った、そしてそういう実存を「演じる」ことも含めてしでかしてゆけるだけの生身としての「説明責任」者であるということ。このへん、専門的なことはよく知らんけれども、そういう彼の地あちゃらの認識としての「企業」や「会社」「事業体」というのが、どれくらいそのような世間一般その他おおぜいをはらんだ「公」との関係で「主体」としてふるまおうとし続けなければいけないのか、「そういうもの」として最低限の枠組みの中でやってゆかざるを得ないのか、というあたりのことを改めて察知させられたりするのだ、こちとらなどの立ち位置と目線からは。

 そういう意味で、むしろ「専門家」という言い方で何もかも特別な能力や責任を担保している存在と考えてしまう、そのことこそがある意味本邦ポンニチ的な「独裁」を生み出す土壌のように感じる。「専門家」の知見や見聞、知識の類がそのままで社会に活用され得るものではないように、それらの知見や見聞、知識を担保している生身の「専門家」がそのままで特別な能力や責任を担保し得る生身を伴っているわけでもない、そういうあたりまえであるはずのことがどこかでもうあたりまえではなくなっているらしい。