見合いの必要性・メモ


*1

 自己表現が得意ではない人、と言ったらいいかな。アピール下手というか「自分の良さを正確に把握して、他者に伝えることが苦手な人」と言ったらいいか。そういう人は一定数いる。恋愛関係ない私になら、のびのびと自分を出せるケースもあれば、恋愛関係なく、男女年齢関係なく、誰に対しても自分というものを表現するのが苦手というケースもある。でも話をしてみるとすごく結婚向きないい資質(真面目さとか誠実さとかいろいろ)を持っていることも多くて、こんな素敵な人が婚活で苦戦しているなんてっ!ってもうハンカチ咥えてジタバタしたくなるような場合も多い。でも出せないんだからしょうがない。


 そういうケースに出会うたびに思うのが、こういう人は一昔前の見合いという制度がちゃんと生きてる頃ならすんなり結婚できたりしたんだよなぁ、ということ。本人が自分を表現できなくても、長い付き合いでそれを分かっている人たちがお膳立てして、代わりにその人の良さを提示してあげたりなんかして、恋愛における自己表現が下手なだけで、人柄や能力に問題のない人の場合は、そこから始まるご縁で幸せになれたりした。でも今の日本の「家」には、それだけの力量はない。親戚づきあいも希薄になって、親や家というものの存在が軽くなって、昔のような「結婚は家と家のものだからね」という感覚がなくなった現代では「家」は形骸化してしまった。なんの力量もなくなり、セーフティネットとしての役割を失ってしまった。


 私が若い頃、「家」というものは「個人を縛る足枷」のイメージが強かった。家に縛られる事ない、自由に生きていいとか、個人が家の犠牲になったらダメだとか、そういうことを旗振りながら積極的に言ってきたのが私たちの世代だった。戦時中~戦後まもなくに生まれた人たちは、憲法が変わったところで意識は戦前を引き継いている。その世代が親になって育てたのが私たちの世代。家というものは、若者を縛り付ける存在で、重荷になるもので、抜け出すもの、逃げ出すものだった。


 でも、こうして自分が歳を重ねて身体に不調が出てくると、また違ったものが見えてくる。「家」というものはある意味生き物だったのだと。私たちが生まれて、自分の足で生きられるようになるまでは家が私たちを守り、育み、私たちが生き物として最盛期を迎えたら、私たちが家に活力を与え家を育み、老齢期を迎えたら、自分の生んだ子世代が家に与える活力によって、守られ生かされ、看取られる。家という生き物が死なずにそこにある限り、私たちは障害を持って生まれても、病気になっても、老いても、そこに守ってもらうことができた。今、家は瀕死だ。私たちが家を見捨てたから、家は死にかけている。


 家の守りを失った私たちは丸裸だ。本来群れで生きる生き物である私たちが、群れを捨て、個を選んだ。活力のある若いうちはいい。縛られることなく、自由に人生を謳歌することができる。でも弱ってきたら。衰えてきたら。私は若い頃、体力に自信があった。なんでも自分と夫の二人で出来ると思ってた。人生山あり谷ありの谷を想像する力が若い頃の私にはなかった。既に婚活において家は機能していない。子育てにもワンオペ問題等噴出している。家から解放されたら幸せばかりと思っていた。それは間違いだったのだろうか。


 家という後ろだてを完全に失った第一世代である私たちが、これから老齢期を迎える。私たちは果たして老齢期を「個」で生き抜けるのだろうか。そんな時のための国の保障なのだけれどそれだって限界がある。制度の隙間、システムの境目というものはある。国は無限に豊かなわけではない。私たちは「個」で生きることが可能な生き物なのだろうか。家を瀕死に追いやった私たちの罪は軽くない。


 途中仕事で中断しながらだらだらと書いた。いだてんの四三さんの実家とか、おしんの実家とか、ゲゲゲのふみちゃんの実家とか、そういう昔の家と婚姻を立て続けにいくつか見ていてなんとなく思っていたことをアウトプットしたんだけど、いろいろ言葉足らずでなんかよくわからんね。なんかわからん。

*1:元ツイは制限かけられたらしく見えなくなっているけれども、つまり「見合い」ってのは実は案外役に立っていたんじゃないか、という話から始まっていた。