エリジウムの作られ方・断片

 暇空氏のやっていることは「ヘイト」「誹謗中傷」であるという前提のcolabo(および支援界隈)側と、住民監査請求はcolaboの公金処理等の疑惑解明のための「市民の正当な権利」という前提の暇空氏側との間で、見えている/見たい風景が全く違うわけで。

 colaboの公金処理等の疑惑解明は「ヘイト」「誹謗中傷」の前に棄却される、というその理屈は、「ポリコレ」はあらゆる法的基準を超越して優先されるべき原理である、といういまどきのそういう人がたおよび界隈の教義であり、カルト化・蠱毒化をわかりやすく世間の前に可視化してくれたところはある。

 難儀なのは、そのカルト化・蠱毒化の教義を無条件に「正しいもの」として、自然に疑いなく「そういうもの」化してしまっている言語空間(まさにエリジウムなのだが)に、マスコミや学会、行政や政治家などの世間も呑み込まれていて、それらが無自覚・無意識な共犯として事態を現出しているところかと。

 いつ頃からどういう過程でそういう言語空間が形成されていって、それら業界の中の人たちが自然に「そういうもの」として呑み込まれていったのか、という問題。言語空間が閉じてゆき蠱毒化・エコーチェンバー化してゆく仕組みについて。特に「学校」「教育」を介した空間を重要なターミナルとして。

 と同時にもちろん、もう一方でのいわゆる情報環境、合焦されやすいいわゆるマスメディアのみならず広義の情報媒体を介して日常の生活世界を編制してゆく「ことば」の質、およびそれらを日常的に受容し受け止めてゆく過程で醸成されていった意識や感覚、価値観その他の問題も、共に。

 別の角度から言うなら、これは「戦後」の歴史民俗的過程とそこに宿ってきた「民主主義(的なるもの)」の転変も、その背景に想定しておかねばならない問いでもあり。「個人」の「自由」、「男女平等」その他、「戦後」「民主主義」のたてつけの裡に70年以上かけて醸成、共有されていった徳目群の現在。