「信心」「信仰」と「実利」の関係

 芸能人やタレントに創●学会員が多いというのは半ばもう常識だけれども、でもだからと言って、その信心の身ぶりが全部個人の思想信条に基づいているというわけでもなく、観客動員その他の実利あってのことといった事情もまた、同じく世間の常識として何となく共有されているわけで。

 というか、「信心」「信仰」も同時に「実利」(「ご利益」)と表裏一体、何らかそういう現実的な利益がある、少なくともそのように思わないことには、「信心」「信仰」だけで人は容易に腰を上げて動いてはくれないもの。

 そのへんは「政治」もまた、同じなんだとおも。

 colaboは一線越えた例だろうが、いわゆる運動・活動家系の人たちを眺めていると、自分たちの掲げる「正義」(つまり「信仰」「信心」)を尖鋭化させて布教することだけが目的になって、どういう「実利」を与えてくれるのかという世間一般が口にしないまでも抱くはずの部分をあまりに等閑視している。

 かつて「利益誘導」という言い方で、政治家が自分の選挙区や地元にあれこれ便宜をはかることを悪いことだとだけ刷り込むようになっていった時代があった。いまもそれは世間一般その他おおぜいの「そういうもの」化された認識としては払拭されていないし、その「利益」が「カネ」と短絡して変換されてしまっているところがあって、それははっきりとした「誘導」主体が形象化されていなくても、ただその「利益」は必ずあるのだ、という部分が根として残っているから、背景や事情は異なれど、あらわれ方としては「埋蔵金」だの「裏金」だのと形を変えて噴け上がるようになっている。

 それが何か「実利」としてベクトルが明確になり、自分達にとって具体的に「ご利益」があることが見えるようになれば、支持や信心、帰依へと整えられてゆくのだろう。公明党共産党がかつて露骨に集票戦術として用いてきたさまざまな「便宜」の類――市営住宅の入居や生活保護の申請など、「困った時に身近で役に立つ」議員活動も、そういう意味では同じこと。自民党の議員が土建屋に仕事をまわすように動いていたのと同じ「利益誘導」ではあるはずなのだが、でもそれは正面から非難されることは、まずないままだった。

 とは言え、近年はその「実利」も具体的な「ご利益」に結実させにくくなってきたのか、貧困世帯に●万円補助します、といった芸もなければミもフタもない、むくつけな「カネ配り」話法による騙しにしかならなくなっているように見える。土建屋を潤すために次々と起案されていた公共事業系の「実利」もまた、すでにそのようなハコものをこさえる仕事をみんなで回して儲けることのできる時代でもなくなっているらしい。公金チューチューと揶揄される補助金喰いのシノギ与野党不問、省庁の壁などすっ飛ばしたところで全面化するようになってきたのも、そのあたりの事情もひとつあるんだろうな、と。