「でかした」「しでかす」のこと。
「まちがい」がおきること。それを仲裁する器量のこと。
いろいろな「手続き」をよく知っていて、それをうまく使い回すことで「トクをする」――法なり規則なりの「抜け穴」を見つけてかいくぐる、そういう「賢い」のこと。
法を前提にしたそういう「手続き」の類は、ふだん暮らしている分はまずほとんど必要はないし、だから意識もされない。空気のような存在。
ただ、何かが起こった時、それは突然可視化され、忽然と現前化する。そのような場合に初めて「手続き」の類もまた、意識の上にのぼってくる。
なにげなく「そういうもの」として連続していた日常に不連続があらわれ断絶する。事件でありトラブルというのはそういうものだろう。そして、そういう場合の解決――つまりふたたび何でもない日常の「そういうもの」へと復帰させてゆくための手段というのは、必ずしも法や規則と「手続き」の組み合わせに寄り添わせるだけでもない。
「まちがい」という言い方が、そういう日常にあってはならない亀裂が走ったことの表現だった。
その「まちがい」を正して旧に復させるためのやり方というのも、法と「手続き」の組み合わせが宰領する現実とは別の世界線において確実に存在していた。
「はなしのできる」人を探す。その「はなし」とは旧に復させるための合意の筋道のことらしい。
その人の選び方がまず大事で、それを間違うと「まとまるはなしもまとまらない」ことになる。このへんは商売における交渉の過程と同じかもしれない。
「はなし」をうまく「まとめる」見通しが立つと、「できた」になる。
「はなし」は「できる」ものである。このへん主語は背後に隠れていて、何やら自然に「できた」ように見せるもの言いになっている。
でも、そんなことはない。あたりまえだ。人が具体的に動いて、関係をつけて、場を設けて、そこで「はなし」を具体的に現前化させるのだ。必ず働きかける人は「いる」し、その人の「はたらき」も現実のものとして「ある」。
けれども、「できた」その「はなし」を語る場合にそのような主体、主語は背後に隠される。
うっかり出てしまう場合があるとすれば、その「はなし」がうまく「できた」にならなかったような場合、つまり何らか「まとまる」へ向けての過程で頓挫や見込み違い、失敗がおこった時だ。
そういう場合は「しでかした」となって、初めて主体があらわれる。「し」のあるなしによって大きく違うらしいのだ、「でかす」「できる」という自動詞的なもの言いというのは。