「労組」についての歴史修正

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 「労働組合」の〈リアル〉もまた、時代と共に「歴史」の相に織り込まれつつあるわけで。日教組であれ国労動労であれ、かつてはそれなりの「英雄伝説」的な脈絡で語られるのが当たり前でもあったそれら「労組」の〈リアル〉が、それらを支える文脈や情報環境が移り変わってゆくことで色褪せてゆくだけでなく、それらの絵図の中のいくつかのピースごと剥落していって、全体の絵図自体が何やら違うものになっている、でもその「違い」はもとの絵図を同時代の空気と共に観ていた者にしかうまくわからないものになっている、といった感じで。

 要するに全共闘の学生がコスプレ(当時そんな言葉はないが)だったように(坂本龍一猪瀬直樹の後の変節みればよろし)、労働争議も「よきボリシェヴィキ」「戦う労働者」みたいなコスプレだったんだわ。
 

 俺が入社した頃はすっかり牙を抜かれたあの頃の労組ジジイがまだ結構いてな、そいつら「いま管理職やってるあいつらみんな吊るし上げてやったんだ」って元暴走族のやんちゃ自慢のノリなんだよ。


 要するに時代の空気と許容度の問題。昔は許されたことも今の非常識という話で、学生運動春闘も「いまの常識」で国民の支持がなかったって斬っちゃうのはまあ雑だよね。


 塩崎恭久なんか中核派に影響されて新宿高校で校長室の占拠までしたのが今じゃ自由民主党行政改革推進本部長やぞ。それが許された時代であるということ。


 「シールズなんかやると就職できない」に元全共闘ジジイどもが「???!」ってなったのもまあそういうことよね。

 「コスプレ左翼」というもの言いは、かつて80年代相対主義の洗礼をくぐった後ににわかに簇生してきた当時の若手論客たち(福田和也など)の「保守」の装いに対して、あんなもん単なるコスプレ、世渡り実利のためにたまたま装ってみせてるだけのことで「本気ではない」というあたりの違和感、トホホ感を揶揄する文脈で「コスプレ保守」「後出しじゃんけん保守」と一部界隈で呼ばれていた、そのあたりの距離感や違和感含みの認識と共通していると思う。

 字ヅラ表面的にはどのようにとられるものであれ、どこかで「本気ではない」、つまり「戯れ」(ああ、ここでもまた……)であって、それで何かのっぴきならない局面に追いつめられたとしても「プロレスだった」「ゲーム感覚」と言い逃れ、あげく「想定内」だの「全部わかってやっている」だのというみっともない逃げ口上(当人はそう思ってないらしいのだが)の切り貼りで凌ごうとする、いずれそういう当時の気分を忠実に、「マジメに」体現した物件にかなり普遍的に実装されていたモードではあった。

 ならばさて、ある時期までの「労組」のもの言いや身ぶりもまた、概ねそのような「コスプレ労組」的な解釈でひっくくってしまっても構わないようなものだったのかどうか、ということになる。


 そう、まさにその通り。「今の感覚でとらえちゃいけない」。なまじ〈いま・ここ〉と地続き、同じ「歴史」であっても「現代史」の枠内のできごと、事象であるがゆえになおのこと、そういう留保や歯止めがかかりにくいらしいということも含めての警句ではある。

 すでにあらかじめひとつの「おはなし」的に輪郭が定まってしまっているらしい、だからこそそれらを構成している挿話や断片、細部の類もまた、ある決まった文脈や間尺でしか配列されてこなくなっている。またそれらの挿話や断片、細部の類にしても、もとあった脈絡から引き剥がされ整形された単なる「情報」としてなら、いくらでもいまどきの情報環境、それこそweb介した「検索」のクレーン・ゲームにざっくり掬い上げられてくるし、それらを「おはなし」の枠内にいくらでも流し込んでゆくことは以前に比べてはるかに容易に、手軽にできるようになっている。

 けれども、それらの作業を経た後にも、そのあらかじめ輪郭の定まった「おはなし」の相貌は基本的に変わってくることはない。挿話や断片、細部といったそれら「おはなし」を構成するパーツはいくらでも多様化し、精密化し、いきいきとさえ見えるようになってくるかも知れないけれども、しかし全体の「おはなし」としてのありようは基本的に動かず、同じようにたたずんでいる、という次第。

 そんで、エピソードを精査してみるとわりと下らないんですよね。愛想が悪く暴言を吐かれた(同時代の他業種との比較は?)、機械化が遅く怠業のように見えた(同時代の他国との比較は?)、まあ何十年も前の幼少時の記憶や他人からの伝聞なんかたいしてアテになるものでなし。

 ここの挿話や断片、細部のそれぞれがもとあった場所、そもそも根を生やしていた脈絡においてもう一度活け直してみたり、それらの配列の仕方を少しずらしてみたり、そういった「おりる」作法の脈絡で「おはなし」自体をためつすがめつ〈いま・ここ〉において再び見直してみようとする態度などは、このような状況ではなかなか宿りにくいことになる。

 むしろ、「おはなし」としての大枠がそう変わらないのならば、その大枠さえ基本的に重ね合わせればざっくり解釈してしまえるようなものであればあるほど、いとも簡単にその「おはなし」解釈の手癖任せに素早く横並びの解釈を新たな現実、「歴史」から未だ遠い〈いま・ここ〉に現前化している眼前の事実に対しても、スムースに粛々と発動してゆくことができるようにもなるらしい。

 この分だとね、安倍後にくる「医療費介護費負担への大ナタ」にも、おまえらあっさり煽動に乗って虐殺ショーに喜んで加担するんだろうよな。


 まあ、クソ爺世代から銭むしるのは俺ちゃんも別に反対しないが、爺どもの抵抗(なんせ票数持ってるからな)にあったとき障碍者に矛先がそれるのはおっかねえ。なにしろホームレスは避難所に入れないでいいって素で言えるほどおまえら冷血だからな。

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*1:中曽根康弘の大往生と共に、彼の「功績」が取り沙汰される中で、国鉄解体があげられるのを糸口にかつての国鉄の労組がどれくらいひどいものだったのか、といった断片がやりとりに現われてきて、それに対する甲論乙駁が始まって……という経緯がこの時のTwitter世間においてあった、そこからの備忘録。

*2:「もうひとつの歴史修正」をめぐる備忘録的な考察の断片ではあるけれども、このあたりの脈絡もまた、少しずつ枝葉を繁らせてゆけるようにしておく必要があると思っている。