倭サヨのマゾヒズムとグロバ強欲商人の悪魔合体・メモ

 ある意味炯眼、と共に案外盲点になる部分のような気も。

 「自虐史観」的な意味での「戦後」の言語空間になじんだ本邦インテリ系意識の「自虐」的性癖は、実は同じく「戦後」の55年体制と冷戦構造の空間になじんだ本邦財界系意識と、手に手をとって総体としての「戦後」を支えてきたのかも知れない、という問いがようやくここにきて、穏当に言葉にして自覚できるようになってきたという意味においても。

 そして、〈いま・ここ〉の時点で必要な作業としては、その財界系意識がここ40年あまりの間、具体的には高度成長から昭和末期のバブル期を経てその後「失われた30年」の平成まるごとの経緯でどのよう変貌変質していったのか、というあたりのことを改めて立ち止まって考えてみることなのだと思う。

 「グロバ強欲商人」へとあれよあれよという間に変身していった「豊かさ」の裡にあった財界系意識のなれの果て。よしや国内は貧しくなろうとも、グロバで儲けりゃいいんだ、といった通俗的な理解が財界系意識の標準仕様になっていったことと、インテリ系意識の「自虐」的性癖もまた内実を自省することのないまま単なる習い性、ココロの手癖のレベルでなぜか「伝承」されていったこととの関係。ある意味上部構造と下部構造(本来の意味とは違うにせよ)とを共に視野に収めながら、本邦世間一般その他おおぜいを否応なく規定してきた社会意識の構造についての見取り図を、まず素描だけにせよ描いてみなければならない。

 そのように考えれば、中韓に対する「贖罪」意識というのも、実はそのような「戦後」70年以上の過程の中で、また確実に変遷変質してきているはずで、単なる世代差に還元したり、あるいは教育のせい、報道やメディアのせい、とそれぞれ何か理由や原因を発見したように口角泡飛ばしても、おそらくそれは事態のある部分、ある角度から見た相に過ぎず、それらも含めたより大きな何ものか、社会意識と呼んでもひとまず構わないような世間一般その他おおぜいのココロやキモチの大きなうねりを視野に収めた「歴史」のありようこそが、おそらく永らく欠落してきたままの本邦日本語環境での〈知〉の弱点なのだと思っている。*1

*1:例によって走り書き程度なれど、持続的にものを考えてゆくための備忘として。