読みやすい文章を書きましょう、みたいなことで金をもらっていたが、社会を悪くしたかもしれない、と思うときがある。少なくともアメリカでは読みやすい文章=バカの食べ物であり、インテリの食べ物たるためにわざわざ読み下しづらい修辞を用いるのが儀礼で、それを読みこなせるのがインテリの定義だ。
— ROOTSY (@rootsy) May 25, 2019
私がたまたま雑誌記事のラフデザインの現場に居合わせて「この辺文字ばっかで読みづらいから図版入れたら」とか「文字文字してるから段組み割ったら」なんて言おうものなら、苦笑いを引き起こすことになる。文字ばっかの本を読めない人に読んでもらわなくてもという消極的なメッセージがそこにある。
他方、日本では雑誌のみならず単行本でも圧の強い段組は避けられ、あらゆる比喩は控えられ、あらゆる冗語は控えられ、形容詞すら控えられ、ただただ簡潔明解を善しとするような風潮が年々強まり、学術領域ですら漢字の割合を気にしたりすることで読み易い文章が増え、結果として読解力が目減りしている。
平易な文章が世界に増えることは知の市民化を裏支えするポジティブなことだと思っていたが、トランプの登場でわからなくなった。トランプ支持の8割くらいは彼の言葉の力だと思っている。全員知ってるわけじゃないけど、歴代大統領にトランプのようなバカの言葉でしゃべる大統領は存在しなかった。
トランプの言葉は発言も文章もほんとすごい。直截的で、クソ明解で、気取ったところがビタイチない。もしわかりやすさ伝わりやすさが文章の価値だとしたら、トランプは満点と言ってもいい。そしてそれは、文字ばっかの紙面を難なく読みこなし修辞を弄すインテリへの憎悪となって爆発的な人気を得た。
あれを眺めていたら、私が仕事ででやったり本に記したりしてきた「わかりやすく伝わりやすい文章」が善なのかどうか、正直わからなくなってしまった。修辞の壁(=読みづらさ)によって特権的であり続けてきた知性は、分断をもたらすのと同時に、何か社会のタガを担っていたのではないかと今は思う。