出版&印刷のいまどき・メモ

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 それほど大きく変わらなかった。大きな変化が、あまり自覚されることもなく広がったのは「電算写植」→「DTP」へと移り変わった時だ。DTPが使われえている現在でも既存の出版社では従来の工程と同じ工程が踏まえられている。が、原稿段階からデータになっているので、版下を出版社側で


 出版社側で作っているケースもある。また著者自身が原稿段階で版下を作ってしまうこともある。DTPを使うとそういうこともできる。版下を印刷所が制作しないと印刷費用を安くできるので、このやり方は非商業的な印刷物では当たり前のようになっている。で、版下を印刷所へ入稿以前につくると


 原稿とゲラの区別が曖昧になる。しかも原稿整理や校閲、校正、著者校という区別も限りなく曖昧になる。出版物の精度を上げる仕組みそのものが混乱してしまうのだ。幻冬舎「日本国紀」の杜撰に背景には技術変化に伴う工程の混乱が隠れているかも。


 印刷に使う版下を著者や編集者が作ってしまうDTPの作業を知らない編集者には、原稿(著者)→原稿整理(編集者)→入稿(印刷所)→版下作り→ゲラ(試し刷り)→校閲と編集者のチェック→著者校→印刷所戻し という作業の流れが混乱していることが理解できない。で、まるきりDTP使用者と


 話が通じなくなってしまう。だって「ゲラ」という言葉が意味しているものがまったく従来のものを異なるから。「ゲラは印刷所から出てくるものだ」と言う人と「ゲラは自分で作った版下データをプリントアウトしたものだ」と思い込んでいる人がけんかを始めると泥沼化する。もともと言葉が


 通していないのに「ゲラ」「試し刷り」など同じ単語を使っているから、めちゃくめちゃな話になってしまう。いやはやすごいことになったなあと嘆息しながら話の交通整理をするだけでも大仕事になっちゃうんだ。

 写植の導入、文字/活字ではなくデザインやレイアウトその他、いわゆる「ビジュアル」系の〈それ以外〉の要素が誌面を構成してゆく上で重要になっていった過程、それらを下支えした技術的な変化から、その後にDTP的な発想の浸透までもたらしていった一連の流れ。それがそれまでの印刷技術とそれに規定された文字/活字メディアのありようと、それと相関していた「文化」の質を大きく変えてゆくことになったらしいこと。このへんはこれまでも折に触れて言及、お題化してきていたことだが、それは単にひとつのトピック、論じ語られるべき問いという意味で「処理」されていいようなものでなく、それがどのようなものであれ〈知〉に信心を持ち、その上で何ごとか仕事をしようと思うのならば、〈いま・ここ〉に対するある共通の理解の重要な要素のひとつとして思い知っておかねばならないことなんだろう、と改めて。

*1:中沢けい、はブンガク由来の今様量産型リベサヨ底抜け生体botの一機体でしかないが、そういう物件でもごくたまに、この程度には〈いま・ここ〉に合焦する/できることはあるらしい。

*2:で、以下は当然、中沢自身ではなく、別の匿名の「野の遺賢」による一連のtweet