「青春」ということ・メモ

 文字の創作文芸としては、石坂洋次郎石原慎太郎あたりの線で「戦後」の「青春」の輪郭が定まっていったところはあるんだろうが、でもそれは戦前のそれともズレてるし、「学校」(共学の)が補助線になってもいるわけで。それが邦画全盛時代にある種ミーム的にも複製、定型化されていった過程。

 これももう口にされず、文字としても使われなくなっているもの言いのひとつだけれども、「青春」というやつ、あれもいまどき風に言うならホモソ&ミソジニー的空間で初めて何か中身あるように感じられる語彙ないしはコピーだったのかもしれんな、とふと。

 「友情」というのも同様に。で、そういう空間において「恋愛」もまた、ある時期までは中身を盛られていたはずで、でも「恋愛」は未だに語彙としては使い回されているけれども、その内実はかつてのそれと実は相当別ものになっているのだろう、と。それは、たとえば「少女」などと同じような形で。

 文字の創作文芸としては、石坂洋次郎石原慎太郎あたりの線で「戦後」の「青春」の輪郭が定まっていったところはあるんだろうが、でもそれは戦前のそれともズレてるし、「学校」(共学の)が補助線になってもいるわけで。それが邦画全盛時代にある種ミーム的にも複製、定型化されていった過程。

 うろ覚えでいま、すぐに手もとで確認する手立てもないが、確か、つかこうへいが「青春」という仮題での芝居の構想をちらっと書いていたような記憶がある。実現していないと思うんだが、もしかしたら別の題で舞台化されたり、何か小説になったりしていたんだっけか。