葬送のフリーレン(アニメ)・断片 & 走り書き

 浪花節、なんでないか、これ (おい)

 例によって唐突すぎて、わけわからんだろうが。

 まあ、そもそもさらに例によって、いまどきのアニメの制作現場の論理やら現実的な条件のあれこれからして、ほとんど何も知らんしわからんまま言うとるんだから、あたりまえにムチャクチャかも、だけれども。でも、それでも気づいたことは言っておくけれども。

 要するに、あれだ。動きの少ない≒おそらくは手間も時間も予算もかけない/かけられない部分と、その分思い切ってリソースぶっこむ部分と、そのメリハリの効かせ具合が、単なる作画制作の台所事情というだけでなく、いや、それがまずありき、なのかもしれんけれども、でもそれを逆手に取って、「おはなし」としての話法・文法とおそらく相当意識的・方法的にシンクロしてるのではないか、ということなんだが。

 で、そのへんの匙加減が、結果として「おはなし」として、あの浪曲浪花節におけるフシとタンカ、の配分なんかに近いような気が、ふと、な。

 動きが少ない絵を「おはなし」として提示してゆくには、そりゃ「語り」で見せてゆくしかないわけで。それは、こういうアニメの場合は主として「会話」であり「モノローグ」であり、それらをむしろ前景化させて意識させることで、動きの少ない絵を良い意味での「紙芝居」的に見せてゆく――うまく言えないけれども、そういうところがあるんじゃないか、と。*1 おそらくそれは、挿絵と本文、そして絵物語から紙芝居などもひっくるめての、本邦「おはなし」話法・文法における「映像・ビジュアル」と「文字・語り」との関係とそれによって醸成されてきた何らかの国民的リテラシーのありようと共に。

 対照的に、動きが必要な局面、それこそ魔法を駆使して対戦する場面などには、節約してあるリソースを集中的に投入して動かして、「語り」は思い切り背景に後退させるというか、むしろ必要ないくらいまでにする。あるとしたら、それら「動き」により論理的な後ろ楯の説明や解説が必要な場合、とか。たとえば、ユーベルの立ち廻りの場面みたいに。てか、あれは「語り」がないと平板なわけで、そういう意味では「動き」は本質的な要素にはなっていないし、ってことはそういう意味では「語りもの」的な流れ方をしている局面、タンカで見せる/聞かせるところではあるような。

 ……このへん落ち着いたらもう少し展開して考えとくべきお題ではあるんだろうが、とりあえず忘れないうちに走り書きだけ。*2
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 あと、そもそもの話、もともとのコミック版の掲載が『少年サンデー』ってことは、あの「サンデー」がこういう作品を許容して掲載させて、ちゃんと市場的な成功も収めることができるようになっとる、そのこと自体、ああ、ほんとにもう時代は変わったんだなぁ、としみじみ思う。もちろん、「サンデー」のためにも、そして本邦マンガないしはコミックの文化としての〈そこから先〉のためにも。

*1:「紙芝居」って、二次元の「絵」を「語り」と併せ技で「動かして」ゆくところがあるわけで、少なくとも受けて/観客≒子どもだが、にとっては。挿絵つきの「おはなし」文芸ではあるんだが、ただそれが子ども相手に商売になるようになっていった経緯とか、リテラシーの浸透共有過程を補助線にしたら、また違う何ものかが見えてくるような気はする。

*2:追記……アニメってのもそういう意味で、実は「おはなし」≒いわゆる「文学」「文芸」と呼びならわされてきた文字/活字ベースのリテラシー前提の、とあたりまえに地続きの表現であり、少なくともそういうリテラシーを共有してきている読み手/受け手の側との関係と場において立ち上がる「おはなし」のありようについては、という懸案のお題のひとつにもあらためてあれこれと……240324

*3:だから、「絵」や「ビジュアル」の部分にだけ特化して語ってゆくような、あるいは、それらと〈それ以外〉の語り(「声」の要素なども含めていい)などの要素とをことさらに別ものとして考えてゆくような、そういう考察なり分析なり印象なりばかり精緻化してゆくような動きは、どこかで牽制して歯止めかけないとどんどん悪い意味で蠱毒化してゆくだけじゃないかな、と。

*4:挿絵と本文の関係、とか、その挿絵の比率がどんどん高まっていって絵物語的なものになってゆく過程、とか。あるいは逆に絵解きやのぞきからくりなどの民俗レベル含めた背景とか、そういう「精緻化」「精密化」とは別の、ある程度画角や視野を広げて「解像度」をさげてみる、という方向での考察や分析も同時に必要なんだとおも、いまさらながらにあらためて、ではあれど。