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もう40年近く前、還暦直前の年回りで出張帰りの空港で突然死したオヤジは、大学は出ていたけれども絵に描いたような体育会系で、「蔵書」の類はほとんどなかった。 いまはもう特養暮しになっているおふくろは当時の高等女学校出で、それなりの読書習慣もあった…
くっきりと一人称、自分からの視点でものを言ったり画像や映像を投稿していた/できていた人が、「自撮り」的な視点、何らかの目的で「見られている自分」をその投稿にあらかじめ織り込んだ、そのこと自体を目的化したような気配を露わにし始めたこと。 おそら…
「1958年10月4日生まれ21歳┃江戸っ子┃火力・原発の即停止┃侵略費は0にして安全保障は中韓と共に┃玉城知事、山本太郎、福島瑞穂、蓮舫、大椿ゆうこなどを支持┃いちよう教授やってます┃フェミニスト┃11月に山本太郎さんの演説を聞いて衝撃┃マイナンバーカ・辺…
「文学」なり「文学評論」なり「文芸批評」なりが、よき時代と情報環境に下支えされた「教養」にそれなりに裏打ちされた人がたおよび知性とに担保されるもので、そのことをまた世間一般その他おおぜいも「そういうもの」と信頼して/できていた時代、がそれなり…
むかしよく言われていたのは、サルトルのような現代の文学者は人間や社会の「全体」を描くところに価値があり、専門分化した「科学」に対する「文学」の価値もそこにある、ということだった。マルクスが人気だったのと同じ理由だし、 https://t.co/XnF9AZHOQ…
教科書には未だもちろん載らず、同時代〈いま・ここ〉の報道やメディアの舞台にも、なぜか表だって言語化されず、だから本当のところは誰も確信持てないのだけれども、でも、何となく「そういうことらしい」と感じるようになっている現実の水準としての「外…
ことば、が現実と紐ついていない、それが普通になってしもとる無自覚ナチュラル魔族な人がたが、実はもうすぐ隣にいくらでも生きている、そんな本邦社会になってしもとるのだと思い知らされる。 それなりにいいこと言っていて、見識も常識もまあ、あるように…
身のまわりに古本雑本が山をなしていることは、もう何度も愚痴まじり、韜晦風味に言及してきているけれども、さてさて、これは果たしてこの先、どういう意味を持つガラクタの山になるのだらう、といったことも、先行き見えてくるような年回りになると考えて…
写真と映像(最近は「動画」か)の違いは、いろんな領域であれこれ論じられてきたけれども、編集前提で素材として映像を撮る場合と、テレビの生放送のように現場の映像を撮ってそのまま放送する場合との違い、というのは案外見過ごされてきているというか、正…
誰もが平等に気軽に安価に、多様で大量の「情報」に接することのできる情報環境がうっかり整備されてしまったことと、大衆社会状況における「バカ」「情弱」「衆愚」のありようの変遷、そしてそれらの状況を「逆手に取る」生存戦略の民俗レベル含めた普遍性、の問…
結局これも文芸の系統なのではないかと思います1992年のエロゲが先ですけど、マップ(街)を徘徊してイベントを探し回る、てのがドラクエ以降の表現上のフロンティアだったのは間違いないかと昔のあの文豪なら絶対ライティングしてるよな、とかなんとなく想…
「専門性」ということを、あらためて考えてみている。 とりあえずは学者研究者、昨今の言い方に倣えば「アカデミシャン」というあのけったくそ悪いもの言いになるのだろうが、良くも悪くもそういう立ち位置を方便としてでも取りながら世渡りしてきた身ではあれ…
地上波テレビを半ば習慣的につけっ放しにしている家庭、まだ割とあるかもだが、映像以前にそもそも流れてくる音声が若者含めた〈おんな・こども〉系の「笑い」「嬌声」が主で、男女不問で「おとな」の落ち着いた声が少なく、さらには不機嫌な声や怒声などもきれ…
戦前、当時の映画雑誌が家の中にあるのは、姉がいるような家の子どもだったりしたらしいこと。いわゆるサブカルチュア、「通俗」とは〈おんな・こども〉を介して日常生活に浸透していった部分が実は大きかったらしいこと。 大正教養主義的な〈知〉wのありよう…
ある種の少年マンガ的、あるいはもっと言うなら戦前の少年倶楽部&大日本雄弁会講談社的な英雄主義――その背後には浪曲その他の勃興期大衆社会状況下の大衆演芸などの水脈もあるのですが、何にせよそれらの脈絡の上に「司馬史観」も「島耕作的ヒロイズム」もあ…
「話し合い」「対話」「議論」で何か事態が好転したり問題が解決したりした経験、あの小学校の教室このかた、まずないままのような気がしている。そういう「学校」における「話し合い」のやり方やその場の雰囲気、そこで使い回される言葉やもの言いなども全部ひっく…
「文意の接続に必要な説明と描写を大胆に省略する技法を一応修得。省略部分の映像は、読者の想像力にまかせて、事実の列記を積み重ねるのみの文を継続させてゆく。そして、それがあたかも視覚的な映画のひとこまのように互いが組み合され、構築されてゆく。」…
最近、あらためてわからなくなっているのが、小説と随筆の違い、というやつ。 散文で書かれた(もちろん日本語で、という前提だが)文章であるなら、とりあえずどんなものであれ「読む」ことはできるわけで、その文章が小説なのか随筆なのか、エッセイなのかコラ…
https://x.com/kotonohasya/status/1773561123050025240?s=20 blogs.ricoh.co.jp これからの時代、デジタル校正は増えていくでしょう。(コストダウンの一環で)対策の一つとして、音声読み上げを使うのも一つ。すぐに出来るのは、パソコン上の表示を、白黒…
浪花節、なんでないか、これ (おい) 例によって唐突すぎて、わけわからんだろうが。 まあ、そもそもさらに例によって、いまどきのアニメの制作現場の論理やら現実的な条件のあれこれからして、ほとんど何も知らんしわからんまま言うとるんだから、あたりまえ…
俺はいま出先の行きつけない大型スーパーで大量の食材を買う任務についたんだぜ。そこはモニタとタブレットが装備されてるハイテクなカートで買い物できるんだぜ。でもそれを使うには会員登録が要るんで、一般客はセルフレジでの会計だぜ。一万二千円分の食…
浪曲/浪花節が、ある意味「耳で観る芝居」的な受容のされ方していたのと地続きで、戦後の流行歌/歌謡曲の、のちに「演歌」とくくられるようなものが輪郭定まってゆく過程でも、「耳で観る芝居」的要素は案外濃厚に意識されて創られていたようにおも。要検討お…
いわゆる「文学」と呼びならわされてきている多様な表現の形式――とりあえず話し言葉も含めての言葉を介してのものに限っておくけれども、それが「個人」の「創作」としてあたりまえに認識され定義されるようになってゆく過程の外側、〈それ以外〉の部分をどのよ…
花田清輝の言うところの、アクチュアリティとリアリティの関係について。 アクチュアリティを、一応、偶然としてとらえ、現在の偶然を踏み台にして、過去の必然と未来の可能とを弁証法的に統一したものが、現実――つまりリアリティだ」というのが、花田の説。…
映像的というか視覚的な「パッと見て全体把握」っぽい認識力前提で、これを伝えるためにはこことこことこのへん「おさえておけば」「何となく全体の雰囲気」は「わかる」といった感じのリテラシー。それが視聴者側と共有されている限りでの「わかりやすい解説」…
toyokeizai.netヴィレヴァンがマズくなった…のは出版社目線で「POSレジ」の導入からだと思っていて。書店のPOSレジって「5冊入荷した本が24時間以内に3冊売れたら自動的に2冊追加発注する」みたく売り逃しが減る素敵なシステムだけどデメリットは「売場が売…
前にも書いたが、とんねるずの登場は1984年当時業界では革新的だった。それまでにないお笑いタレントなのにスタイリストが付いてカラフルなK-FACTORYに身を包んだ二人は高身長でスポーツの背景があり、ルックスも華があった。「夜ヒット」では衣装で光GENJI…
1⃣見通し甘くて大失敗しても、「作戦さえ立て直せばオールオッケー!、俺たちスゲエ!」でずっとやってきた人たちが2⃣プロの邪魔をしながら被災地に要らん支援(物資)の急襲をかけたあげく3⃣「被災地の人がかわいそう、ちゃんと想像力を!」「現地からの報…
口語自由詩があたりまえになってゆく過程で、方言をその口語自由詩に反映されてゆくことも一部試みられてくるのですが、ただそれを「朗読」する場合に実際どのように発音発声していたのか、まして標準語の話しことばと混在しているような作品の場合、とかいろ…
思想史というか、本邦近代このかたの人文社会系の〈知〉の成り立ちや、その経緯来歴(「歴史」とは言わん)を「わかる」ための補助線・準拠枠的な意味でのマルクス主義ってのは是非はともかく不可欠だと思うんだが、いまどき人文社会系の若い衆世代はそのへん、…