
本は背表紙が命なんだな、ということを近年、あらためて思い知り続けている。
もう少していねいに言うと、背表紙とその並び、配列のしかた/されかたが大事、ということではあるのだが。
まあ、これもある程度以上、おのれがこの世に生きてある間にはとても読んだり参照したりしきれんくらいになるまで、ではなくても、それなりに「蔵書」と呼んでも構わんくらいに紙の本、書籍の類が身の回りに積み上がってきたような病膏肓物件にとっては、ということではあるのだろうが、ただ乱雑にそこらに放り出されて積み上がってたりするだけでなく、やはりある程度書棚かそれに近い「背表紙がこちらに向かってずらり並んでいる」状態にしなければ、まず物理的にも始末がつかなくなっているくらいにまで、量としての本があるようならば、これはおそらくかなり本質なのではないかと思う。
とりあえず自分ごととして話をするしかない。
山ほどの古本、それも雑本の類を無慮考えなしに買い集めてきた結果、勤め先の大学もすったもんだの末ながらひとまず定年退職、それに伴い大学に置いてあった本もまとめて持ち出さねばならなくなって、住んでいる部屋におさまるはずもなく、どうしようもないのでなけなしの退職金(クソみたいに少なかったが)から別途、それら本をひとまずかわして置いておくべき部屋を確保して、そこに急遽、書棚もしつらえ、とにかく移動させたのだが、それらを大学の自分の部屋に置いてあった頃のように再配列しなければいけないのかどうか、というあたりで、実は立ち止まって考えざるを得なくなった。
いつも眺めている書棚の背表紙の配列、それはもちろんランダムにそうしたわけでもなく、それなりの目的と使い勝手を考えて、こういう系統のものはこのへん、こっちはこのあたりに、と何となくかたまりごとに場所を決めて、その中でそれぞれ配列していったものではあった。正規の図書館ならばそれこそ日本図書分類に従って生前と配列されているわけだが、その意味で言うなら、ごくごく私的なおのれひとりのためだけの分類基準――そこまで確固としたものでもないが、何にせよ何らかあるものさしに従って分類、配架されていたわけではある。
で、それらを否応なく一度バラバラにして移動させたのだから、それを新たな移動先の書棚においても「復元」するべきなのかどうか、というあたりで、具体的な作業に入る前に、はたと考えてしまったという次第。
何かものを考えて、何らかまとめたものにしようとする、それを「書く」ことで具体的なアウトプットとしてゆくかどうかはともかく、少なくともそのようにあれこれやくたいもないことをずっと考えるのが日々の習い性になっていて、またそれが仕事にもつながっていたりしてきたわけだが、そのような日常で身の回りの本たちがどのように「役に立つ」のかというと、これこれこういうお題ならば確かこのへんの本に使えるものがあったはず、あるいはあるような気がする、というフックで思い立ったが吉日、それらが背表紙見せて並ぶ書棚の前に言って手にとりめくってみる――そんな動き方がいつでもできるようにしてある、それが「役に立つ」ということの具体的なあらわれかたではありました。
公共の図書館などに行って「しらべもの」をするのと同じかというと、基本的に同じなのだが、ただ決定的に違うと自分などが感じているのが、その書棚なら書棚の背表紙の並び方、配列のされ方が手もとの書棚とまるで違うことからくる、その後の作業にまで揺曳するらしい何ほどかの違和感。図書館だと当然、あの日本十進分類法だかNDCだかという基準にきちんと沿っていて、それはもちろん常にそういう状態に維持管理されているものなのだが、と共に、それらそこに並んでいる本は帯やカバー、箱などが全部引き剥がされたむき出しの全裸状態で、ものによってはビニールコーティングされてたり、さらに加えてあの背ラベルやバーコードのタグなどまで貼られていて、まずそういうガワのたたずまいがいたたまれない。仮に、そこに並べられているのが自分の部屋の書棚にあるのと全く同じ本であったとしても、その図書館仕様に裸にむかれて整然と並べられているありさまの妙な行儀のよさみたいなものは、どこかどうしようもなく「他人」の表情になっている。
自分との関係で、良くも悪くも時間をかけて、それこそ「つきあう」ことによって手垢もつけば破れもし、あれこれそれまでの痕跡もついてゆく、そんな本たちだからこそ、複製媒体の横並びであっても、それらの中のたまたま一冊が何かの縁で手もとにやってきている。そんな「なじみ」の意味あいこそが自分にとっては大きいらしい。それは本というメディアの社会的な役割とか、情報処理における意味とか、そういう理屈とはおそらく全く関係ないところでの、自分にとってのモノ一般、身の回りにこの「自分」と関係づけられているということに決定的に規定される、おそらくは生身の人やイキモノなどまでひっくるめての性癖に関わってくるのだと思う。
「読む」も「書く」も、突き詰めればそんな「自分」のありようと抜き差しならず関わってくる営みになっていること。だからこそ、「読む」も「書く」もそんな生身の自分の「上演」としてとらえざるを得ない部分があること。それらも包容しようとしないことには、自分にとっての「わかる」は十全な〈まるごと〉にはなってこないらしいこと。もちろん、是非も良し悪しも別にして。
読み書き、共にそうだとは思うが、とりあえず「書く」方については、その必要性が日常生活で具体的に何か認められるようにならない限り、わざわざ何か学ぶ形でその「書く」の方法を身につけようとはあまり思わないのが世間一般その他おおぜいの習い性ではあると思う。
何かの書類や文書、それこそ役所や会社に出さねばならないような書式ある文書や履歴書などから、各種「届」の類まで、「書く」必要が生じて、かつそれを決まった書式通りに埋めてゆくだけでなく、何らか「文章」の分量にしなければならなくなる事態があって初めて、人は「書く」に悩むのではないか。
たとえ400字、いやそれ以下であっても、何らか「文章」を書かねばならないとなった時に、え?なにそれ、何をどうやって書けばいいの? になるのが大方であり、それは昔も今も基本的に変わっていないのではないだらうか。
日常生活で何らか「文章」なまとまりのものを「書く」機会そのものが少なくなっていて、たとえば手紙やハガキ、日記など私的に「書く」ことを、少なくとも手書きの文章という意味では、われわれはどんどんしなくなっていった。
ワープロ専用機の普及がパソコンに至り、キーボードを介して「書く」ことが普及浸透していったわけだが、ただそれは手書きの「書く」とどう違い、どう地続きでもあったのか、というあたりの自省や考察は、実はそうちゃんとなされてきていないように思う。*1