VHS資料の「限界」

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 VHSテープの資料としての保存、保管についてなら、人ごとではない。
 
 自前で現場で撮影してきたものも、VHS-miniフォーマットのものも含めてそれなりにあるし、それ以上に映画やテレビ番組など、既存の商品として市場に出回っていたソフトを中古で拾ったものが、DVDなどデジタイズされないまま結構な量、転がっている。ついでに言えば、LDだってあるし、音源ならばカセットやオープンリールのテープメディアだっててんこもりだ。
 
 マメにデジタイズしてコンバートしておけばいいものを、と言われるだろうが、そんなマメで地道な作業がコツコツとできればこそ、若い衆相手の講義や何かの資料として使う必要があった時に、おっとり刀で関連機器を設定しては焼いてみるのが関の山、コンスタントにそういう資料環境の整備をやっていないツケはずいぶん前からまわりまくっているのだからして。

 図書館みたいな公共の、管理運営もしっかりした規則規定の下に行われているれっきとした施設であっても、いやだからこそ、なのか、こういう情報環境の変貌とそれに伴う更新の必要にうまく対応できないまま、お手玉し続けた挙げ句に破綻がくる、というのは、わかっているつもりでいても、いざ現実に直面させられると、これはなかなかにしんどいことではある。カネとヒトの手当てをすれば解決することではあるはずなのに、それができなくなっているからこそのこういう難儀。紙媒体にしたところで事情は基本、そう変わらないわけで、本を置いておく場所自体が逼迫してきて、だからこそ電子化だ、というかけ声ばかりが大きくなって、でもそれは新規に導入されるものから優先的に対応されて、これまで蓄積されてきた紙媒体はというと、少しずつカネとヒトの措置ができたところから手がつけられるくらい、いつになったら全部がめでたく電子化されることやら、かの国会図書館くらいしかその見通しが具体的に推測できるようなスケジューリングになっているところはないんじゃないか、よう知らんけど。

 VHSテープに記録された映像についてならば、めでたくデジタイズしても、その次にはそれを「観る」環境の問題もある。大画面のモニターにくっきり映し出される映像記録、というイメージはカッコいいけれども、元がVHS時代の解像度(このもの言いも一般に普通に使われるようになって久しい。その中身がどれだけ理解されているかどうかはともかく)だと、いまどき設定の大画面に映し出したところでジャギーのギザギサありありなわけで、レガシーメディアにはレガシー度合いに応じたレガシー環境というのもまた、ある程度いまどき最先端の機器の間尺で準備しておかないことには、「再生」という実は得られなくなっていたりする。HDだの4Kだのの動画や映像が手軽にスマホでパソコンで、大画面モニターで観ることができるようになっているいまどき環境でも、それに比べて薄ボケたような眠たい解像度のはっきりしない映像をうまく快適に再生しようとしたら、機器はもとよりそれを「観る」こちら側に意識もまた、レガシーモードにチューニングしておかねばならないようなところが正直、あったりする。

 その「再生」をしてくれるVHSデッキ自体が、もう中古でしか入手できないどころか、その中古資源もゆっくりと枯渇し始めている。修理したりメンテかけようとしたところで、対応してくれる業者ももうおいそれと見つからないし、ようやく見つけて依頼しても料金が高くなっていて二の足を踏むレベル。業務用に近い再生機器を中古でいくつか確保して、メンテかけて使っているけれども、一昨年も複数台にガタがきたので修理を依頼したものの、見積りで出された料金が高くて1台分を何とか事務方に泣きついて工面してもらうのがやっとだった。

 さらに、そもそもブツとして、モノとしてもVHSテープまではまだ「書棚」的なところに収めておけるのだが、これがDVD系のディスク形態になると、ブツとしての存在のあり方が一気に別ものになって、少しは厚みのあるプラケースに収納したところで「背表紙」をインデックスとして使うことがしにくく、並べてみたところでインデックスとしてのアクセスのしやすさ、ぶっちゃけ扱いやすさに障害が出てくる。まして、スペースに限りがあるとてそれを薄型のケースにしたらもういけません、「書棚」に並べる意味が雲散霧消、ブツとしての意味あいが蓄積を活用する利便性を否定してくるようになる。ウソでもまだ「書物」の延長線上で頑張っていられたあのVHSテープのケースならばこそ、の扱いやすさ、手慣れた感じというのが、こうなると一層、愛おしいものになる。

 だいたい、デジタイズされて「データ」化されたら最後、ブツとして手で直接扱うことができなくなる。映像も音声も、スチールも動画も全部等価にフラットにモニタ上に投映されて、もちろんそれをマウスなりトラックボールなりを介して操作することはできるけれども、でもそれはこの手で触れて持ち上げたり移動したり、めくったり何だりする/できる具体的なブツではなくなっている。隔靴掻痒というもの言いがぴったりくるような皮膜何枚だか向こう側の〈リアル〉としてしか存在してくれない「データ」は、それがいかに大量に集積され、そしてまた効率的に「便利」に整理整頓、引用検索できるようになっていても、壁面一面の書棚にずらりと並べられる本や、それに準じたVHSテープやレコードの類(レコードもあのジャケットには「背表紙」がないディスク媒体ではあったけれども、まだあのLP盤のブツとしての大きさは手で直接扱う信頼感を担保してくれるものだった)の集積具合が醸し出していた信頼感を継承してくれるものではないらしい。