本も「生身」に

 今の学生、昔の学生とちがって教科書として担当教員の本を買わされることへの恨みや反感がむちゃくちゃ激しいのだが、大学関係者でもこの変化に気づいていない人、わりと多いと思う。


 養老孟司先生が以前「今の若い人にとって生身の人間はノイズ」と仰っていたのですが、今回の教科書問題もそれに通じる現象のように思います。知らない人が書いたものであればそれは「物」として処理できますが、よく知る人物が書いたものだとその物自体が「その人」扱いになって不快になるのかも。

 「本」というブツを「買う」ということ自体の意味あいが、かつてとはもう大きく変わってしまっていること、が、まずもって前提ではあるんだろう、と。

 まして、それが「学校」というたてつけの中で、眼前の生身の「教員」が否応なく「指定」してきて、それを入手しなければ講義に出席しても意味なさげな上、何より単位を取れないだろう、という縛りをかけられたところで、むりくり「買わされる」という意識がものすごくストレス喚起するのだろう、と。

 もちろん、かつてとて、大学の講義の指定図書を「買わされる」というのは普通にあったし、その担当教員の書いたものを指定され、ひどい場合は巻末にあるカードみたいなのを切り取って提出させられ、間違いなく新刊で本を買った証明を求められる場合すらあって、ムカつく、不条理だ、なんでやねん、といった怨嗟は当然宿っていたのだが、でも、それこそ「そういうもの」で致し方なし、単位取って卒業するための堪忍すべき不条理として受け止められていたし、また、そうやって「買わされた」本や教科書は大学まわりの古本屋に持ち込んで叩き売り、またそれを後輩が買って使ったり、知り合いやサークル介して譲り受けたり、といった教科書ないしは指定図書のリサイクルが学生街には確立していた。その程度に「本」とのつきあい方もまた、ある種の実利と経済のバランスの裡で覚えさせられていったところはあったのだが、さて、昨今となると、そういうリサイクルも壊滅してしまっているのだろうから、ふだん自分で買おうとも思わなくなっている「本」というやくたいもないブツを「買わされる」ことの怨嗟は数倍になっていることは予測できる。

 あと、これは当然だと思わないでもないが、どうして「本」なんだ、というのもいまどきのこと、明らかにあるように感じる。プリント類なども含めて、具体的なブツで配布されること自体に、何かストレスを感じるらしく。ダウンロードしてスマホで見る、データでもらって処理する、そういう形態でないとうまく「自分の手もと足もと」でハンドリングできないししにくい、何というかそういう感覚。