日本アニメのセリフと絵の関係・メモ

 ガンダムの呪縛って言うと、よく言われるのは「戦闘中に会話」だけど、あれは「閃光のハサウェイ」劇中でもやってたんで表層だけのものだということが証明されたんだと思う。もしかしたら、ガンダムの呪縛とは日本のアニメーションの演出におけるタブーと重なるところが大きかったのでは。


 つまり、元祖のガンダムが当時の制作状況から継承せざるを得なかったTVアニメの伝統表現を、絵を描く立場にいた人が新世代の技術とコンセプトでブレイクスルーした、というのが「閃光のハサウェイ」のもたらしたものなのでは、と。


 「閃光のハサウェイ」は原作を読んでいる人なら知ってる通り小説を読み込み富野ガンダムの要素をまめに掬い上げているアニメなのだ。戦闘中の会話もニュータイプも。しかも正史のUCでメインどころの逆シャアと繋がりも深い。なのに初めて観たような人でも見れるものになったのはなぜか?


 何が違うのか考えてみた。


 村瀬監督はインタビューで「絵と間で説明する方向性にした」と語っている。それはある意味台詞との連携プレーで表現を広げてきた日本のアニメの方向性と少しベクトルが違う。だが、それはガンダムを知らない人でもなんか面白そうと言わせる成功の背景になっている気がする。


 昔、宮崎監督がカリ城を作った時に「アメリカの田舎の爺さんがふらっと映画館に入ってきてもわかるようにしたい(意訳)」という理由で描いたのが冒頭のカジノ強奪シーンだったそうだ。たしかに台詞がなくとも「こいつらはドロボーなんだな」とわかる作りである。


 台詞で絵を補完するのが日本アニメの伝統の一つであり、その魅力でもあるのだが、えてして台詞の難解さに陥る傾向がないわけではない(それも醍醐味だ)。絵がその難解さと釣り合うか超えないと一般人はもうついていけない。アニメが一般人にとってとっつきにくいのは何も目が大きいからではないのだ。

 富野由悠季監督の作品はセリフが大仰で、でもストーリーが解りづらい。セリフで説明が補完されてないんだよなぁ。それは、梶原一騎先生の大仰さとも相通じる文語文化。口語としてはおかしいので、アニメにすると変さが明確になる。でも、梶原先生の解りやすさは、富野監督にはないんだよなぁ。