「限界●●」というもの言い・雑感

 「保守」でも「リベラル」でも、それを自称し、またそう名づけることで何かはっきりするところもあると思えるからそうするのだろうが、でも、いずれその名前に本体をとられてしまって、そもそも求めていたはずの自分と世の中との関係についてのものの見方や考え方から逆に疎外されてしまうような人がた、ないしは界隈というのを「限界」と冠つけて呼ぶことは、さて、いつ頃から出てきたものだったろう。

 まあ、この「限界●●」の「限界」の解釈、一般的な定義とは違っているのかも知れない。ただ、自分としては、右と左、保守とリベラル、といった政治的な立ち位置をある直線軸でプロットしてわかろうとする図式があり、その上での両極に触れてしまっているような界隈、かつてなら「極右」「極左」と呼んで片づけられていたようなものが、それではしっくりこなくなったので新たなもの言いとしての「限界保守」「限界リベラル」的なものに置き換えられるようになった、という印象を持っているのだが。

 それは、ひとつの政治的な立ち位置として、あるいは思想のありようとして「極端」にまで触れてしまった、というだけではうまく説明できない、どうもしっくりこない何ものか、というのがある時期からそういう政治思想沙汰のあれやこれやに対して察知されるようになってきて、その違和感の部分を受け止める対応のひとつとしてそれらが「限界●●」と呼ばれるようになった、という風にざっくり理解していた。

 その違和感、しっくりこない何ものか、というのがおそらく問題だったのだろう。それまでのような左右両翼を設定して、その間の直線上に政治的、思想的な立ち位置を探ってゆく考え方、それはあくまで便宜的なものであり、しちめんどくさいそれらの議論を「わかる」に近づけるための方便だったと思うのだが、いつしかそれはあらかじめ「そういうもの」として「正しい」ものさしとして君臨するようになり、本来あくまでもナマモノであり〈いま・ここ〉の動態でしかないはずの「政治」までもが、あらかじめそのものさしを介してしか「わかる」にならなくなってしまっていたように思う。

 ここでもまた、本邦日本語を母語とする範囲でのその「政治」という漢字二文字の熟語が、近代以来のその内実の転変ごと、悪さをしているわけで、ほんとにこの「政治」という字ヅラから想起されるものが、「そういうもの」としてあらかじめ静態的、かつ外在的に「ある」になってしまっていることで、そもそも動態でしかない〈いま・ここ〉の現実において power をそれぞれが行使しながら、利害を調整して望ましい「状態」にもってゆき、「維持」してゆこうとする――まあ、そういうおそらく politics 本来の内実にあるはずの、常にpowerをbalanceしよう/させようとすることによって招来される動態の連続過程、といったニュアンスが割ときれいに抜け落ちてきてしまっているらしい。*1

 「限界」の冠をつけられるような政治的立ち位置というのは、そういう従来の左右両翼的な直線上のプロットでなく、むしろそのようなものさしをどこかで「越えてしまった」といった意味あいが付与されているらしい。「あ、これはもう別ものだ」的な、「ああ、そういうところに逝っちゃったのね」的な、はっきり言うなら「もう相手にしてはいけない」存在といった、エンガチョのしるしとして。あるいはまた、精神医学などで「境界例」「境界性」と訳されてたりする、あの「境界」(border) の語感なども、訳語としての正確さなどとは別に、ごく漠然としたイメージとしてどこかに反映されているのかもしれず。

 いわゆる「陰謀論」――その中身も昨今、急激に多様化、複数化して、それこそ「境界」が曖昧になっているみたいだが、何にせよそういう方向に振り切れてしまってたり、あるいは、昨今はこっちが多数派のようにも思うが、そこまで明快でなく何となく「陰謀論」的な風味や気配程度のものであっても、それらがすでに抜き難く漂い始めているような、そういう違和感。で、それは同時に、どういう基準や規範になっているのかは知らず、でもとにかく「さわったらあかん」という、彼岸に行ってしまったもの、になっているらしく。このへん、情報環境の変貌とその中でツールとして効きのある語彙やもの言いの使い回し方、などとも絡む問いにはなるはずなれど。

 「限界左翼(サヨク)」がはじまり、なのかな。ハッシュタグまでできとるので、ちとびっくり。「#限界左翼」

togetter.com

 まあ、例によってまた、パターナリズムだの父権主義的だのと、できあいの語彙やもの言いベタベタ貼りまくってハリボテこさえるお仕事に大方は没頭しているらしいけれども。

*1:ああ、そう言えば、銀行口座の「残高」が balance だったことを初めて知った時も、わけのわからない軽い衝撃があったなあ、と。このへん、それこそあの財務省界隈の「財政均衡」的な発想などとも絡んだ、本邦日本語を母語とする拡がりならではの悪さの働き具合なのかもしれず。ゆるく要検討お題でしかないとは言え。