かつての民主党政権時代、マニフェストだか何だか能書きは忘れたが、とにかく声高に得意げに叫び回られていたあの「コンクリートから人へ」が、要するに「戦後スキーム」下の公的資金配分の仕組みのつけ替えだったことも、すでに世間にも察知されてきていて、それは雑に言ってしまうなら、つまりは同和や反社、宗教系なども含めてのそれら「戦後スキーム」下で育まれていたさまざまな「そういうもの」化していた利権――公的資金を財源にお仲間ご一統で「うまいことやる」ためのたてつけからの一応の脱却と、その同じたてつけをでき得る限りの遅滞なきスムースでシームレスで「持続可能」wな延命させるためのなりふり構わぬ「戦争」なんだと見るべきなのかもしれん。
で、その「戦争」を主導しているのが、あのエリジウム世間――政治家・官僚・法曹・メディア・学界等のコングロマリットを、いわゆる「リベラル」的な「そういうもの」化した「正しさ」を、乾いた術語や論理、筋立て確かな言葉の構造体でなく、華やかキラキラスイーツまぶしの「おキモチ」駆動で稼動させてゆく今様のゆるふわ権力の本体だったりするらしく。
「あたらしい公共」とかもほとんどそれと同じ意味、もっともらしい術語やカタカナもの言いで粉飾しているが概ねそういうこと、なんだろうな。エリジウム世間の公認市民、「意識高い」人がたにとっての「公共」。〈それ以外〉のその他おおぜいは、それら「公共」に直接関わり保護されるような存在ではなく、ただの使い捨ての労働力で「養分」、と。
……ああ、あのニセコなんかで「インバウンド」がもたらしてる風景とおんなじなんやなぁ。だから、カネ持ち富裕層の中国人やら、「難民」のガワまとったクルド人やらミャンマー人、技能実習生のたてつけごかしの多様性wスッポンポンな世界の国からこんにちわな色とりどりなどまで、とにかくそういうエリジウム公認の「外国人」はいくらでも入ってこれる環境を着々と整備しているわけで。それに伴いいろんな不良物件外国人もあたりまえに混入してきて、みるみるうちにこちとら国内での半径身の丈日常生活間尺での治安が底抜け煮崩れしてゆくことまでもも含めて、ぜんぶ「あたらしい公共」主導の「あたらしい日本」を作ってゆく上での「痛み」だから致し方ないんだ、辛抱するんだ、と。
米国の暫定植民地だった日本が、米国の力が弱まったことで、それ以外の国の食い物にされつつあるわけだ。なるほど、それが多様性の正体……
「あたらしい」とわざわざ銘打っていたからには、それまでのあたらしくない、つまり従前の公共はもうそのままではうまくゆかなくなっている、という認識が下地にあったのは明らかで、それがどううまくゆかなくなっているのか、というあたりのことについての筋道立てた説明はほとんどないまま、「コンクリートから人へ」という、当時はなぜかそれなりにもっともらしくも聞こえはしていたあのもの言い一発で強引に納得させられていった、というあたりが正直、ほんとだったように思う。
そもそもその「公共」ってもの言い自体からして、それまでそうおおっぴらにスポットライトを浴びてきたものでもなかったはず。学校の教科や教科書でのそれこそ「社会」や「公民」、あるいは「道徳」といったあたりの文脈で使われていたのは何となく覚えているけれども、試験でもそんなに重要な役割を与えられていたような記憶なければ、まして社会に出てから頻繁に意識したり文書書類で使ったりといった言葉ではないだろう。そういう意味では「社会」なんかとあまり変わらない程度の内実しか持たされておらず、「あたらしい社会」でも別に構わないような、その程度のスローガンだったようにも思うんだわ、あの「あたらしい公共」なんてのも。
なのにわざわざ「公共」ときた。ああそうだ、「自助-共助-公助」なんてのも何となくその頃から言われ始めていたっけか。「公(おおやけ)」なんて普段の話し言葉の語彙として、整理箱の底の方に紛れているようなものでしかなく、出番があったとしても「公私混同」的な成句で、それも「私(わたくし)」とセットで使い回されるくらいのもの。まして「公共」なんて二字熟語だと「公共の交通機関」や「公共施設」といった組み合わせで埋め込まれているのに、言われてみれば気づく程度。なんでいまさらそういう「公」混じりの「公共」なんてのをある時期、やたらある文脈において使うようになっていたんだろう。
ひとつ、仮留め的に書きとめておきたいのは、まず、本邦におけるそういう「公共」がこれまでどのようなかたち、どういうたてつけで現実にあり得てきたのか、という経緯来歴についての問題意識をもう一度、役に立つように掘り起こして共有しておこうとしないと先行きに役立つ議論にならないだろうこと、そしてそこにあらためて鍬入れして収穫可能な知的土壌を整えてゆこうとするのなら、どこかで必ずおそらく「神」(的な超越的な何ものか)の問題が、言葉本来の意味での歴史・社会・民俗・文化レベルを〈まるごと〉として包摂する文明史的な脈絡で問われてくるのだろう、ということだ。
柄にもない大文字の能書きになるけれども、これはほんとにそう思っている。だって、「神」(的な超越的な何ものか)との繋がりがない、あるいは少なくとも意識すらされていないところで、そんな人間の社会においてどのような意味でも「公共」なんてものを切実な問いとして考えられるはずもないんだもの。