「非モテ」「インセル」「ナード」の聖戦

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 「非モテ」「インセル」「恋愛工学生」etc.たる俺たちナードは、元マッチョどもしか味わえなかった「恋愛」「結婚」を自分達の手に取り戻すために各自戦っている最中だと認めて欲しいのだ。「〜〜〜だからモテない」のではなくて「モテないから〜〜〜」なのだ。一番はじめのスクールカーストに合理性なんてないでしょう?被差別階級男性はつらいんだよ。

 モテる/モテない、という、そもそも「ただそれだけのこと」だったはずのことが、うっかりと知らぬ間にいきなりしちめんどくさいハナシにつながってしまうのもまた、いまどきの情報環境というか言語空間の特性かも知れないのだが、それにしてもおまえら、なんでもかんでもどうしてそう「自己分析」方向にだけものごとをこじらせてゆくようになっとるんだ、と。

 「インセル」ってなにそれ、という向きにとりあえず以下、wikiの定義から。

 インセル(英語: incel)は、"involuntary celibate"(「不本意の禁欲主義者」、「非自発的独身者」)の2語を組合せた混成語である。望んでいるにも拘わらず、恋愛やセックスのパートナーを持つことができず、自身に性的な経験がない原因は対象である相手の側にあると考えるインターネット上のサブカル系コミュニティのメンバーを指す。また、そのような状況下にあることを彼らの間では「インセルダム(inceldom)」とも言う。

 「ミソジニー」とかもそうだが (未だにようわからんし手に合わん……)、いわゆるフェミニズムジェンダースタディ系由来とおぼしきそういうカタカナ術語がどんどん流れ込んできて、それらの界隈でだけ問いや事案が取り沙汰されてゆくことで、「そもそもそんなに大層な問題だったの?」という素朴な観点はすでにとっくにどこかへ追いやられてしまい、残るはお約束の手癖と習い性とでもっともらしく本質の表層をなで回してゆくことだけがそれこそ笑い猫のように延々残ってゆくというワヤが末路。

 仮に「異性の恋人」を獲得できたとしても、ナード達の歪んだ認知はそう簡単には治らない。それこそ「女性をモノ扱いする」って言われるヤツでしょう。みんなウディ・アレンの「アニー・ホール」でも観るんだ。だからさ、もう論争するんじゃなくて社会問題、それも福祉の問題として見るべきだと思うのですよ、「非モテ」「インセル」「ナード」。

 異性(じゃなくてもいいが)に「モテる/モテない」ということが、本当にその英語圏彼の地で、ぶっちゃけ北米アメリカ社会で問題化されていることと対応しているのかどうか、本邦日本語母語でのその「モテる/モテない」というもの言いが彼の地のその問いの内実にどれくらいうまく対応できているものかどうか、そのあたりの自省や留保がこれらの「議論」においては、どんな立場をとるにせよあらかじめ欠落させられているようで、自分などはまずそこがものすごく違和感であり、敢えて他人事として言うなら「どっちにしても、そりゃ救われんなぁ」という感慨になってしまう。

 たとえば、「モテモテおじさん」という、加藤芳郎の半世紀以上も昔の秀作があった。そこにおける「モテ」とは、見てもらえばわかるようにその主人公たる「モテモテおじさん」の造型もキャラクターも、たとえ当時としても「ありえない」想定が前提になっていたけれども、不特定多数のオンナ衆にとにかく好かれる、追いかけられる、勝手に愛を打ち明けられる、一方的につけまわされる、とにかく当人にとってははなはだ「迷惑」でしかなくなってしまうというその「モテ」の難儀を一貫して描き続けていたあたりの「理由」や「背景」というのは、今となってはそう簡単にわかったつもりになれるような領域のことでもなくなっているように思う。*2 
お定まりな泥棒ヒゲを生やした短髪むっくりの中年(当時としても、だ)がどうしてそんなに「モテる」のか。その秘密は最後まで明かされることもなく、当時の若い衆世代に現われ始めた「プレイボーイ」の類型 *3 からも「そんなんじゃない」と迷惑そうに逃げ回り、確か最後には当の主人公自身、不条理な失踪をとげてしまうのが結末だったように記憶する。

 「インセル」と自らを規定してしまうことを、そのようなカタカナ術語で性急に自身を囲い込んでしまう習い性自身をまず立ち止まってみること、そうでないといつまでたってもそりゃフェミ系出自の笑い猫な言語空間に幽閉されて消耗してゆくしかないだろう。少なくとも、日本語環境の内側からそのような難儀を自らふりほどいてゆきたいと思うならば。何かうまく説明できてしまうような、一瞬「あ、そういうことなんだ」と閃いて感じてしまうような、そういう「わかり方」こそがもしかしたら自分たちの〈いま・ここ〉の不自由や鬱屈を持続可能wなものにしてしまっている源泉かも知れない、と思い直せるかどうか。*4
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 不特定多数のオンナ衆に好意を持たれ、興味関心向けられることが「モテる」なのか。たとえひとりやふたりであっても、この自分自身の実存(このもの言いもそろそろアップデートかけとかんとまずいんだが)を十全に受け止めてくれる関係が持てるような存在がいれば、それもまた同じ「モテる」ということになるのか。自分から好意を持って働きかけることと、そのような「モテる」との関係はどのように折り合いをつけてゆけるのか。働きかけた結果、それが失敗した地点から、報われなかったそのような働きかけに対する悔恨や自責の念の裏返しの事態が、過剰な理想としての「モテ」として一気に輪郭をあらわにしてゆくようなからくりはすでに実装されていないか。

 単に「失恋」でこれまでは片づけられてきた、そしておそらく今もそれで始末してしまってとりあえず構わないような「生きてりゃよくあること」が、「インセル」や「非モテ」やいずれそのような目新しい術語でベタベタ装飾されることで特別な体験になってしまう不幸。そこからは「関係」をつむいでゆくことで相手も自分もまた「変わってゆく」可能性を常にはらんでいるということや、そのような過程をひとまず信じて「働きかける」ということへ踏み出すことさえ、自らしないようになってしまう自縄自縛が待ち受けている。そしてそのような自縄自縛は、あっさりと「めんどくさい人」というくくられ方で片づけられ「処理」されてゆくもまた必定なわけで。
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 「モテ」とは「マッチョ」で「スクールカースト上位層」で、それに対する自分たち「非モテ」は「ナード」で「インセル」で「スクールカースト階層」で、という囲い込み方の手癖からすでにそのような自縄自縛は期せずして露わになっている。そしてそれは、そろそろもう社会の敵と認定され始めてきているあの本邦フェミニズム界隈の症状と基本的に同じだったりするのはさて、どこまで自覚されているのだろう。
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*1:倭フェミに対する抵抗や批判、反論の類の足場として近年、割とはっきりと表明されるようになってきたある種の開き直りめいたマニフェストの話法。これらにももちろん来歴はあるし、たとえば「おたく」第一世代以来の被害者意識と「選ばれし者」意識のないまぜになった自意識のありようなどと地続きの現象のように見えるあたりも含めて。

*2:加藤芳郎の「作風」の脈絡において理解しようとしないことには、この作品の特異性というか、当時の世相や社会状況においてどのように読まれ得たものか、といったあたりの十全なわかり方には届かないとは思う。たとえばこの主人公、まつげがはっきりとある意味と共になにげに強調されていたりするし、「キャッ」と嬌声をあげたりもするわけで、まあ、このあたりはまた別の機会にでも。

*3:あの野坂昭如も世に出てきた当初はその類型を自らなぞってみせるようなキャラクターだった、当時の勃興期マス・メディアの舞台における立ち居振る舞いとしては。

*4:かつて盛んに言われるようになっていた時期もある「恐妻」といったもの言いの来歴や変遷について考えてみようとすることもまた、そのようないまどきの不自由や鬱屈を違う方向からほどいてゆく可能性を見つけてゆくことにつながってゆくのだと思う。