「文学」というあらかじめ決められた枠組みに対する信心を、ほとんど素直に持たぬまま生きてきていることは、何であれ日本語の散文表現としての「書きもの」をそのような枠組み抜きに「読む」ことをできるようになっていたという意味で、まあ、ありがたいことだったのだと思う、ここにきてなおのこと、いまさらながらに。
そっちに引きずられる素地はそれなりにあったはず、なのだ。中学から高校くらい、新潮文庫などの文学関連のものを手当たり次第に買いそろえて読んでみた時期はある。水上滝太郎だの梅宮春生だの野間宏だの檀一雄だのといった名前を、それら文庫に収録されていた作品と共に覚えたのも、学校の国語や現代文の副読本、文学史などにきれいに整えられた事項ではない、〈それ以外〉の部分に勝手に興味を抱いて、というかむしろそういう〈それ以外〉を自分だけの好奇心で掘り進めること自体に趣味があって、ひそかに心の中の棚にそういうコレクションをしていたように思う。あるいは、あれは確か高校2年くらいだったか、小遣いためて太宰治全集を関学大の生協で注文して自分のものにしたこともあった。あれは筑摩書房版の、当時出ていた学生向きの廉価版みたいな装幀だったか、それなりに真面目に純朴にめくって読んでいたはずだ。
けれども、ならばそこから先、いわゆる「文学」の枠組みについて居住まい正して勉強しよう、といった方向への折り目正しい進み方をすることはなかった。これまた深い理由があったわけでもない。ただそういう趣味、習い性のなさしむるところだった、としか言いようがない。王道の定番、誰もが必ず通るべき道、みたいなものに対する気後れやうしろめたさ、居心地の悪さみたいなものが、〈それ以外〉の部分、メジャーではないマイナー、メインではないサブ、いずれそういう人の眼の届かないところに好んで頭突っ込んでゆくような癖として、すでにもう身についていたのかもしれない。