思想史というか、本邦近代このかたの人文社会系の〈知〉の成り立ちや、その経緯来歴(「歴史」とは言わん)を「わかる」ための補助線・準拠枠的な意味でのマルクス主義ってのは是非はともかく不可欠だと思うんだが、いまどき人文社会系の若い衆世代はそのへん、どう理解して消化しているんだろう。
たとえば文学史・文芸批評界隈で「プロレタリア文学」が若い衆世代にまた注目されていたりするらしいんだが、「先行研究」や脚注、引用文献を眺めていると、何というか、ああ、あらかじめ限られた枠組みの内側でしかものを見たり読んだりしないのかな、「論文」形式での書き言葉で伝わるものはそれとしても、実際に対面でおしゃべりしてみたらどんな理解になってるのかな、とかいろいろ思ってしまう、まあその程度にこちとら老害化石脳ではあるんだろうな。
社会学のある部分(なのか?)に「文化社会学」だか「歴史社会学」だか、やたら文学や映画、マンガやアニメ等をネタにあれこれ「考察」「分析」してみせる芸風が蔓延していて、カルスタとポリコレ・フェミ風味の「批評」が自明の「正しいもの」になっていることに違和感表明なさげなのがもう、な……
社会学(というかフェミ?)界隈の「文学」理解は、かつてこれ読まされてもう、卒倒したことがあるので、ここらをまず自ら総括wしてくれんことには何も信用でけんぞ。
書評も確か書評紙に書かされたはずだが、なぜかどこかに行ってしまって見つからん。見つかったらまたあげておくけれども。
本流の「文芸批評」なり「文学史」なり「近代文学」なりやっとる学術研究アカデミア方面から袋叩きにされるんじゃないかと思ってたら、こちとらボンクラなのか、どうもそれほど正面から話題にもならず、それこそ生ぬるくスルーっぽかったのも含めて、なんだかなぁ、と思った遠い記憶。
そのスルーの理由というか内実は、「専門的にとりあげるにも値しない」「門外漢の感想文」的な高みからの判断よりも、むしろフェミニズムなおんなさんがたの言いたい放題に対する忖度・斟酌という「放置」「甘やかし」的な気分が実は大きかったような印象が、当時の同時代感覚としてはあったような。
積極的に持ち上げないまでも、それこそ生ぬるく遠巻きに眺める、父親的保護的視線で「見守る」(それがオトナの態度である、という程度の内実も含めて)が「そういうもの」としての多数派の空気だったかと。自分たちのインテリコミュニティの後裔としての「若い娘or女性」のやんちゃ、として。
あの富岡多恵子「すら」ここにすんなり加担していたこと(まあ、この中ではまだ正気に踏ん張ってたところはあったと記憶するが)に、かなり衝撃は受けた。
かつての「新人類」や「ポストモダン」直撃世代が「歳をとってゆくこと」を初手からなかったことにしていたのと同じように、本邦フェミニズムもまた、本質的な意味での「歳をとってゆくこと」を等閑視して/できてきたのだと思う。
だって、出した答が「おひとりさま」だもの。