〈いま・ここ〉と〈それ以前/外〉

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 若い衆に曳かれてラノベ(とその周辺)詣りをしてきて昨今のそれ系批評or概説類を管見ながらも啄んでみて改めて感じるのは、むしろ〈それ以外〉の視点からそれらを逆さまに見通そうとしてみることも今や必要になってきとるんかも知れんなぁ、と。

 ラノベやそこに至るコバルトや少女小説その他の側から「歴史」を見通そうとすることの方がすでにデフォになってきつつあるらしい分、〈それ以前/以外〉だったある時期までの「文学/文芸(/おはなし)」史の枠組みが後景化してしまっていて、どっちにせよバランスとしては良からぬことになっとるんでないかいな、と。

 このへん、またもや懸案の「もうひとつの歴史修正」とも関わってくるわけで、情報環境の変貌とその裡で社会化してきた世代的意識がその時代の主要な言説を制御するようになってくることに「歴史」もまた規定されている、といった視点をまず確保することが昨今重要性を増してきとるなぁ、と。

 〈いま・ここ〉とそこに生きる自分自身の感覚や視点をまずゼロポイントとして置く、その態度はまずまっとうだと思うわけで。だからこそそのまっとうさを健全に運用してゆくために、〈それ以前/外〉から自分の〈いま・ここ〉を眺め返そうとする視点を確保しようとでけんと自閉の隘路に落込むしかない。その往還をできるかぎりこれまた自分自身の〈いま・ここ〉からやろうとする、そのことで初めて具体と抽象、主体と客体、何でもええけどいずれそういう自明になってきた認識の二分法なりものさしなりを別の方向から乗り越え得る何ものか、も見えてくるんだろう、と。*2

 そのためにも、やはりいまどきなお縛りになっとる (としか思えん) いわゆるポスモ/ポスコロ以降の本邦日本語環境ならではなガクモン的文体なり話法なりから意識的に「おりる」こと、がまず必須なんだろう、と改めて。

 ラノベ少女小説コバルトその他をまっとうに語ろうとするならば、ある時点から先は〈それ以前/外〉のブンガク、もはやすでに滅びてしまったかに見える (そりゃそうだろう) 少し前まで「正しい」とされてきた文学/文芸の枠組みを、正しく〈それ以前/外〉として錬成してみようとする、そんなワヤがどうやら必要らしく。〈いま・ここ〉と〈それ以前/外〉、その弁証法。これ、きっと昨今もうどもならんくらい蠱毒化共食い化してしもとる倭フェミ周辺やいわゆるおサヨクリベラルなどの「そういうキ●ガイ」界隈、にも適用できる処方箋なんやとおも。


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 その学問的の「学問」やら「批評」やら自体が少なくともラノベ (やら何やら) を料理しようとする際の道具としてはもう使えん、適応でけんようなものになっとるかも知れん、という疑い含めて必要なはず、なんだと思うとります。だから、そういう学問やら批評やらもひっくるめての「文体」の創出、がほんとは必要なんだろうな、と。それができるかどうか、具体的にどのようにできるのか、あたりのことも含めて。

 新井素子菊地秀行の、少し下って上遠野浩平西尾維新の文体を如何に同じ土俵に落とし込むことが可能なのか。やはりライトノベルは「文体も自由」と認めるところから始まるのではないかと。

 ほとんどそのへん具体的な違いすらようわからん老害化石脳ですが、おそらくそういう個々の作風や作家固有の文体というよりも(それはそれで別の議論で)、それらとは別の水準の、ある意味メタなレベルでの「批評」「論考」のための文体、というあたりの意味あいが大事なんでないかいな、と。

 なるほど。そうすると作風のマトリクスの中心を見極める必要があるかもしれませんね。

 あまり窮屈にマジメに考えすぎず、要は全部「おはなし」としてひとくくりにしておいて、その上でグラデーションなりスペクトルなり(ようわからんですが)想定してゆく、てな感じでとりあえずいいんでないかいな、と。昔ながらに「おはなしor読みもの文芸」でもいいですが。でも「文芸」って漢字表記混じりになると、「文学」ほどでなくてもやっぱそれなりにいかめしくなっちまったりするわけで。


 それに、それだと映像系の複合なども視野に入りにくくなったりする感じもありますし。何にせよ昨今の情報環境の変貌とうまくなじめない窮屈さや不自由さが強くなるので「文学」「物語」などは作業上の方便としてもなるべく避けときたいなあ、とずっと。

*1:ラノベという現象(としか言いようがない、とりあえず)を「文学」なり「文芸」なりの脈絡だけでなく、言葉本来の意味での「民俗学」的脈絡で考えようとすることは、ひょんなことから学生若い衆との道行きで手がけることになってしもたお題。当の若い衆よりももしかしたらこちとら老害化石脳の方がトクしたお題だったかも知れんのだが。

*2:ことさらにめんどくさいもの言い弄しとるつもりもないし、そういう趣味ももうとっくに忘れちまっとるくらいだけれども、でもやはりここはこのような「考えるための主体」のありようをできるだけ誠実にことばにしようとしとかんことには、ただでさえ〈知〉に収斂してゆくべきことばの作法の足場から良かれ悪しかれ煮崩れ、変貌しつつある昨今の情報環境のこと、本当に大事で切実なことをもう一度問いとして再度設定してゆくことすらでけんまんまになるだろう、とは思うとる。

*3:以下、ありがたいことにレスがついたので少しやりとり。ゴチック部分がつけてくれたレス主の発言。