なんかもうね、近世の情報環境ベースで醸成されていたリテラシー介した「現実」描写が定型化して役立たずになっていった過程とざっくり同じようなワヤが、昭和後期80年代系ポスモポスコロニューアカ的コピーライティング文体(とひとまず言うとく)についても起こってきとるとしか思えん昨今の状況でな。
〈リアル〉の同時代を宿してゆく「場」なり情報環境なりもまた変遷してゆくわけで、そことの関係でそれまで機能していたリテラシーがみるみる眼前の事実、生身の生きる現実と乖離してゆく過程というのは、おそらくいつの時代にもそれなりにあってきているのだとは思うが、それにしても……(´-ω-`)
昨今「ポエム」と揶揄されるようなもの言いや文体に対する違和感、距離感もまた、そういう少し前までそれなりに機能していた(らしい)リテラシーを実装した人がたがその手癖習い性のまま考えなしにそれを未だに振り回していることに対する世間一般その他おおぜいからの「批評」が含まれているはずでな。
で、それっておそらく、いわゆる「文学」のもの言いや文体に対する違和感、距離感などにも関わってきている可能性もまた、併せ技で考えようとしておかにゃならんことだと思うんだが、な。ある種の自意識、「書き手」の側の内面のありようそのものがもはやそのような情け容赦ない「批評」に全面的にさらされるようになっている、という事態を良くも悪くもどのようにフィードバックしようとできるか否か。
それはまた、前から言及している「歌う」主体の意識のありようの落差、それこそカラオケを「歌う」際の自意識の、若い衆世代とそれ以上のおっさんおばはんたちとの間の、かなり決定的な「違い」や不連続、断絶の類ともおそらくどこかで関連してくる同時代的お題、なんだと感じている。