社会学と「セカイ系」・雑感

 槍玉にあげられている人がたの側が、なぜそういう目にあってるかよくわからない風なのもまた象徴的で、それはまさに「そういうとこやで」と言われざるを得ないような、自意識のありようの問題だと思うんだが、それ自体ご本尊にとっては自明の共同体wに溶け込んでいるらしく気づきようがないという……ゆるく考えたらこれって、いわゆる「いじめ」(この言い方よくないんだがとりあえず)の構造と地続きなところはあるようで、ただそれがおそらくご本尊がたの日常半径身の丈の範囲では発動されていない、そのへんの「社会」への属し方、「個」の「関係」と「場」のありようの問題に関わってくるとは思う。

 たとえば、今や定型定番のネタにもなっている、ひろゆきのこれ、とか(´・ω・)つ

 あるいは、同じくこの「データ」というもの言いを高圧的に使うこれ、とか(´・ω・)つ

 「エビデンス」などと同じく、「客観的」とされる「データ」をもとにした発言でなければ問答無用でdisっていい、という共通理解がすでにある程度醸成されていて、それはおそらく「社会学的なるもの」にうっかり代表されるようにもなっている「文系なるもの」のある典型的なあらわれの部分が昨今絶賛大逆風にさらされている状況とかなり通底している何ものか、ではあるんだろうとはおも。そしてそれは、対抗的に想定されているいわゆる「理系的なるもの」が相対的に「正しい」ものとして、「正義」の位置に祀り上げられているらしい気配と共に、漠然とした「公共」のたたずまいをまとって、主に若い衆世代のその他おおぜいの気分に実装され始めているように感じる。

 だが、それは「あなたの感想にすぎない」ものなど問答無用で意味のないくだらないものである、という新たな抑圧源にもなっているのではないか。それは一方で「おキモチ」や「想い」などというもの言いと共に、これまた過剰に無意識裡に「問答無用で認められたっていいはずなのに不当になかったことにされている(ように感じる)」属性をまとって同時代の気分にわだかまっているものをよりくぐもらせ、昏い情熱ばかりをそこにためこんでゆくようなベクトルを加速させているように見える。

 でも、それが解らないんです。彼等にとっては世界=セカイだから。で世界とセカイで延々すれ違いを続けると。


 でも、世界からみればセカイを振り回されると困るわけです。いっぽうセカイ側は世界とセカイを勘違いしてるからセカイ批判だと思う。

 まれにセカイが世界を食うことがあります。ロシア革命とか。