人文系の危機・メモ

人文系の「知の蓄積」ってアドバンテージは、

1) 蔵書量・読書量(文献通読量)
2) (1)を検索する能力(見出しとキーワードを覚えておく記憶力)
3) (1)(2)を駆使した横断的分析力

とかなのかなって思うんだけど、そのアドバンテージはアナログでなければ価値が維持できないんだよね。


だって、「ソース(書籍、文献)がデータ化されて広くネット上に置かれ、【内容】を複製して誰でも読めるようになったことで、資料(の発行数、現存数)そのものの稀少性が失われ、横断的検索もGoogleで賄うことができ横断的分析は集合知で……ってなっていったら。


「資料を蒐集することと、集積資料を検索すること、それを横断的に分析すること」に主眼が置かれる人文系学問は、入門のハードルも低くなれば、極める労苦も極めて低くなる。
つまり、「誰でもなりやすくなり、エキスパートのありがたさも下がった」てのはあるかもしんない。


結果、「そんなので社会学者を名乗れるなら名乗るわw」っていう輩が自称・社会学者として増え、「社会学者でなくても、社会学者が言い募る程度のことはやれるわ」という非・社会学者(しかし同程度のことが能力的にできる)が増え、またそれぞれがSNSなどで【相互に発見されやすく】なった。


そうすると、そうした人文系学問の徒が「自身の価値を守る」ためにできることは何かというと、

1) 既存の稀少な資料・データをなるべくデジタル化させない(知の独占と隠蔽)
2) 従来の方法論を全て熟知している(ごく限られた)キュレーター以外に発言を許さない(もちろん後塵は育てない)
3) 自身の研究を模倣されたり、或いは批判されたりするのを避けるために、【分かりにくく難解】にする
4) (3)に権威を作り、「難解で内容が分からないもの」を権威に基づいてマウントする

大抵の門外漢と一般人は、「生活に密着しておらず、難解すぎて実用性がなく興味もなく意味も分からないもの」はなくても困らないから、それらの分野・従事者・研究者が翳す権威を、「権威」と捉えて敬わない。たぶんだけど、「社会学者」が敬われず、評価もされないってなったのは、そういうことなんじゃないかな、っていう。


「聞き集めてある程度まで紐解くことはできても、こちらからコミットすることは決してできず、答え合わせはなりたたず、制御もままならない」という分野を扱う人文系分野の観察者風情の立場から言えば、まあそういう感じじゃないかなって気はする。


あと、「かなりデータ化が進んではいるものの、まだ完全にデータ化された訳ではない純粋な一次ソース」は、【電子化されてない文献】以外だと、【人間】かな、て。そりゃまあ、今の壮年より若い世代は一人一台以上のネット接続端末を常時持ってて使ってもいる。SNSによる「声」の発信も多かろう。


が、高齢者はそこまで(十分に浸透したと言えるほどには)行ってないし、若年層でも皆が皆、「自分の生活や主張の全てをSNSなどに文字としてのみ発露している」かというと、まあそういうこともないよね。


なので、「データ化されていない一次情報の塊としての人間、またはアンプラグドな個人」という、ネットからでは届かない情報源を持ち続け得るか、というのが、人文系の価値と地位を維持する崖っぷちの条件なんじゃないのか、とは。


ただ、そうやって「アンプラグドな個人の主張」を偏重していくと、今度は「半径5mの常識」の罠に引っ掛かっちゃって、「社会全体を見渡す」ことからはズレていく訳で、人文系が「学問」であることを維持するには、なんとも「社会学者が多くなりすぎた」んじゃないかな、って気がする。


だから、「社会学」から「社会学者」を切り離し、社会学者は生き残りのために同業者を相互に排他淘汰しあう、っていうことが必要な時期にきてるのではないだろうか?「真の社会学者」として生き残るためには、「エセ社会学者」を淘汰しなきゃね、っちう。