地上波テレビを半ば習慣的につけっ放しにしている家庭、まだ割とあるかもだが、映像以前にそもそも流れてくる音声が若者含めた〈おんな・こども〉系の「笑い」「嬌声」が主で、男女不問で「おとな」の落ち着いた声が少なく、さらには不機嫌な声や怒声などもきれいに「キャンセル」されている印象。
— king-biscuit (@kingbiscuitSIU) 2024年5月5日
地上波テレビを半ば習慣的につけっ放しにしている家庭、まだ割とあるかもだが、映像と音声が共に流れてくるからテレビのはずなのに、昨今の地上波テレビ番組はそもそも流れてくる音声が若者含めた〈おんな・こども〉系の「笑い」「嬌声」が主で、男女不問で「おとな」の落ち着いた声が少なく、さらには不機嫌な声や怒声などもきれいに「キャンセル」されている印象。
CMが必ず一定比率で混じる民放は言わずもがな、そもそもそのCMを律している「広告・宣伝」話法・文法が、音声だけでなく映像含めて何らかの基準で制御されているゆえなのでしょうが、なのに、CMがないことになっているNHKまでも含めて同じような音声の調子になっているように感じるのは、さて、どうしてなのか。
とは言えその一方で、つけっ放しとは言え、それは本当に「そういうもの」化した習慣でしかなく、特に何かの番組を見たい、それこそ予約して録画してでも、みたいなモティベーションは、アニメや連ドラなどを別にしたら相当低くなってきているような気もする。
エリジウムの雛型、つまり行動や発言、身ぶりから立ち居振る舞い、声の出し方からそこに乗せられるべき感情表現などに至るまで、ひとつの準拠枠として機能しているらしい本邦の「テレビ」という媒体のありよう。
社会のあらゆる局面で間接化、リモート的な距離のとり方/とられ方を強いてくるような現実が進行している。人と人、生身同士の「つきあう」だけでもない。身の回りのものや道具との「つきあう」にしても同じこと。テレビとのつきあい方、などもそのひとつかもしれない。
親が入っている介護施設――特養なのだが、そこでも日中そこですごすことが多い大部屋には必ず大画面のテレビがあり、常にスイッチが入っていて何らかの番組が放映されている。それは病院の待合室などもそう。さすがに音声は絞られているにせよ、何らかの映像はそういう場に必ず流されていて、そしてそれはほぼ地上波テレビ。こういうのも視聴時間に計算されるのかどうか、視聴率算出のからくりはいまどきどうなっているのかよくわからないが、いずれにせよそういう環境映像的な流しっぱなしの端末になっているケースが、昨今のテレビには多いように感じる。
在宅介護時代、耳が遠くなってる母がずーーーーっとテレビ大音量でつけっぱなしにして逃げられなかった()経験あります。当時「麻生は漢字読めない」「もはや解散以外になにもできない」「(小沢さんの陸山会事件)国策操作に違いない、自民はそこまでするのか」を朝から晩まで延々と。これは家から出ない、出る手段のない人たちにとって、インターネット環境や手段を使えない人にとって、もはや洗脳といえる状況では?と危惧したものです()
カルトの洗脳でも監禁して一方的な主張をかわるがわる聞かせる手法ありますが、スピーカー(出演者)が変わっても主張は同じ内容を繰り返すわけです。そうすると「たくさんの人が同じこと言ってる」と勘違いする人も出てくる。テレビでしか人間関係()がない人にとっては「みんなが同じこと言ってる」状況です。……ド田舎ではテレビのコメンテーターの言葉を丸暗記=政治通。外れた言葉は届かない()思考や判断の習慣を奪われます。
まあラジオ替わりですね。BSの報道番組をはしごして夕方を終えるだけで。
若い子はゲーム実況しか見てない。
テレビチューナが家から消えた日、ですね。チューナレススマートテレビでアマプラかDMMTV、U-nextとかで課金してもNHKより安い。
ロールモデルがテレビだった人たちの恋愛事情みたいなのがかなり悲惨な事になっている感じよな。
でもドラマになると、女も男も喚き出すんでもうずっとCMやってろと思う。