雑感

繰り返して「読む」、こと

本は読むためにある。だから、読んでしまった本は手放す。売れるものなら売る、求める人がいれば手渡す、そういう人がいる。 同じ本を気にいれば何度も、時を経て後もなお、たまたまめくることになった程度でも、繰り返し読む癖の抜けない自分には、やはり縁…

「抒情」、小野十三郎的なものから・断片

小野十三郎の「抒情」についての認識、その他からとりとめなく極私的備忘。 彼の詩論の核にあるらしいのは、詩とは「抒情」である、ということがひとつ。で、その「抒情」というのは、言葉による表現としての詩の形式――韻文であったり朗唱であったりするような、…

親の蔵書や書棚のあるなし、他

もう40年近く前、還暦直前の年回りで出張帰りの空港で突然死したオヤジは、大学は出ていたけれども絵に描いたような体育会系で、「蔵書」の類はほとんどなかった。 いまはもう特養暮しになっているおふくろは当時の高等女学校出で、それなりの読書習慣もあった…

「先行業績」は「正解」ではない

「先行業績」とは「正解」ではない。 なんか、いまどきの若い衆世代、それを初手から「正解」的にだけとらえとるような気がすごくしとる。 それら「先行業績」個々の内容というだけでなく、それらが「業績」として乗っかってきた背景その他ひっくるめて、言…

ポリコレ、の背景・雑感

自分が代表務めている組織の、そもそも何が、どういうところが社会から問題視されておおごとになってしもとるのか、ということは、やっぱりものの見事に抜け落ちたまんま、なんですなぁ、この御仁。 https://t.co/GgJ8Kl8Q7y— king-biscuit (@kingbiscuitSIU…

「文学評論」という稼業の背景

「文学」なり「文学評論」なり「文芸批評」なりが、よき時代と情報環境に下支えされた「教養」にそれなりに裏打ちされた人がたおよび知性とに担保されるもので、そのことをまた世間一般その他おおぜいも「そういうもの」と信頼して/できていた時代、がそれなり…

「文学」「全体」そして「科学」・メモ

むかしよく言われていたのは、サルトルのような現代の文学者は人間や社会の「全体」を描くところに価値があり、専門分化した「科学」に対する「文学」の価値もそこにある、ということだった。マルクスが人気だったのと同じ理由だし、 https://t.co/XnF9AZHOQ…

女子社員教育のむかし・雑感

「だいたい、新人女子をみていると三種類に分けられる。一つは、いわゆる男勝りの勝負師というタイプ。その次はまったく逆で従順そのものの良妻賢母型。第三番目は戦後とくに増えた型として、どうせ一生この会社にいるつもりはない。要領良く適当にやっておこ…

言葉というもの・雑感

「言葉というのは不思議なもので、これを道具として使い回せるようになってるがゆえにわれわれどうやら人間という、この地球上の生態系で極めつきにけったいで異質な生きものをやってられるくせに、何にせよ漢字ふた文字程度の間尺にくくられるような「大き…

〈まるごと〉の歴史、そして「限界」界隈その他・雑感

教科書には未だもちろん載らず、同時代〈いま・ここ〉の報道やメディアの舞台にも、なぜか表だって言語化されず、だから本当のところは誰も確信持てないのだけれども、でも、何となく「そういうことらしい」と感じるようになっている現実の水準としての「外…

小さなDQN力の必要・メモ

小さなDQN力ってあると思うんだけど保険入らず気にしないとか数日賞味期限切れた事気にせず食うとか薬の賞味期限切れてて数年経っても飲めるとか(毒性発揮する奴もあるらしいぞ!)治安悪いと言われている地域やホテルに気にせず泊まってコスパ上げるみたい…

魔族話法の言語空間・メモ

ことば、が現実と紐ついていない、それが普通になってしもとる無自覚ナチュラル魔族な人がたが、実はもうすぐ隣にいくらでも生きている、そんな本邦社会になってしもとるのだと思い知らされる。 それなりにいいこと言っていて、見識も常識もまあ、あるように…

おのれとだけ紐付いた紙媒体の山のゆくへ

身のまわりに古本雑本が山をなしていることは、もう何度も愚痴まじり、韜晦風味に言及してきているけれども、さてさて、これは果たしてこの先、どういう意味を持つガラクタの山になるのだらう、といったことも、先行き見えてくるような年回りになると考えて…

コロナ禍の記憶と「おはなし」・雑感

しかし本邦、コロナ禍3~4年間の「被害」について、かなりきれいに忘れてしまっとるように感じるのは、やっぱり世界的にも対策が奏功して相対的にうまく抑え込むことができたから、というのが大きいんだらうか。 現実的にも、また映画なりドラマなり何なり「お…

「民度があがった」という認識、その功罪

時代が変わり、世代も変わって「民度」があがった、野蛮な習い性は薄くなった、という論。そういう事実が体感と共にあることを認めながら、しかし同時に、それが何やら別の不自由、考えなしの現状肯定の気分を漂わせながらの場合が少なくないことが、ずっと…

candidな映像、隠し撮りなどとの関係

写真と映像(最近は「動画」か)の違いは、いろんな領域であれこれ論じられてきたけれども、編集前提で素材として映像を撮る場合と、テレビの生放送のように現場の映像を撮ってそのまま放送する場合との違い、というのは案外見過ごされてきているというか、正…

大衆社会化と情報化、「衆愚」の制御、他

誰もが平等に気軽に安価に、多様で大量の「情報」に接することのできる情報環境がうっかり整備されてしまったことと、大衆社会状況における「バカ」「情弱」「衆愚」のありようの変遷、そしてそれらの状況を「逆手に取る」生存戦略の民俗レベル含めた普遍性、の問…

30年後の「ときメモ」学習・メモ&雑感

結局これも文芸の系統なのではないかと思います1992年のエロゲが先ですけど、マップ(街)を徘徊してイベントを探し回る、てのがドラクエ以降の表現上のフロンティアだったのは間違いないかと昔のあの文豪なら絶対ライティングしてるよな、とかなんとなく想…

嗜好品としての恋愛⇒セックス・メモ&雑感

脳に可塑性がある10代で、良い体験がないと、その後ハマりにくい。逆に10代で良い体験があると死ぬまで引きずる。ゲームなどの趣味で良く見られるけど、これたぶん異性にも当てはまると思う。10代で異性に良い体験がないから、性欲があっても結婚には繋がら…

「専門性」について・雑感

「専門性」ということを、あらためて考えてみている。 とりあえずは学者研究者、昨今の言い方に倣えば「アカデミシャン」というあのけったくそ悪いもの言いになるのだろうが、良くも悪くもそういう立ち位置を方便としてでも取りながら世渡りしてきた身ではあれ…

テレビの「嬌声」、そしてラジオ化する現在・雑感

地上波テレビを半ば習慣的につけっ放しにしている家庭、まだ割とあるかもだが、映像以前にそもそも流れてくる音声が若者含めた〈おんな・こども〉系の「笑い」「嬌声」が主で、男女不問で「おとな」の落ち着いた声が少なく、さらには不機嫌な声や怒声などもきれ…

大正教養主義のこと、雑感

戦前、当時の映画雑誌が家の中にあるのは、姉がいるような家の子どもだったりしたらしいこと。いわゆるサブカルチュア、「通俗」とは〈おんな・こども〉を介して日常生活に浸透していった部分が実は大きかったらしいこと。 大正教養主義的な〈知〉wのありよう…

司馬史観と島耕作的ヒロイズムと「歴史」

ある種の少年マンガ的、あるいはもっと言うなら戦前の少年倶楽部&大日本雄弁会講談社的な英雄主義――その背後には浪曲その他の勃興期大衆社会状況下の大衆演芸などの水脈もあるのですが、何にせよそれらの脈絡の上に「司馬史観」も「島耕作的ヒロイズム」もあ…

「話し合い」への不信感、その来歴・雑感

「話し合い」「対話」「議論」で何か事態が好転したり問題が解決したりした経験、あの小学校の教室このかた、まずないままのような気がしている。そういう「学校」における「話し合い」のやり方やその場の雰囲気、そこで使い回される言葉やもの言いなども全部ひっく…

「読者の想像力」と「映像」・雑感

「文意の接続に必要な説明と描写を大胆に省略する技法を一応修得。省略部分の映像は、読者の想像力にまかせて、事実の列記を積み重ねるのみの文を継続させてゆく。そして、それがあたかも視覚的な映画のひとこまのように互いが組み合され、構築されてゆく。」…

「文学」の思ひ出・雑感

「文学」というあらかじめ決められた枠組みに対する信心を、ほとんど素直に持たぬまま生きてきていることは、何であれ日本語の散文表現としての「書きもの」をそのような枠組み抜きに「読む」ことをできるようになっていたという意味で、まあ、ありがたいことだ…

小説と随筆、の違い (とは)・雑感

最近、あらためてわからなくなっているのが、小説と随筆の違い、というやつ。 散文で書かれた(もちろん日本語で、という前提だが)文章であるなら、とりあえずどんなものであれ「読む」ことはできるわけで、その文章が小説なのか随筆なのか、エッセイなのかコラ…

葬送のフリーレン(アニメ)・断片 & 走り書き

浪花節、なんでないか、これ (おい) 例によって唐突すぎて、わけわからんだろうが。 まあ、そもそもさらに例によって、いまどきのアニメの制作現場の論理やら現実的な条件のあれこれからして、ほとんど何も知らんしわからんまま言うとるんだから、あたりまえ…

耳で観る芝居、のこと・雑感

浪曲/浪花節が、ある意味「耳で観る芝居」的な受容のされ方していたのと地続きで、戦後の流行歌/歌謡曲の、のちに「演歌」とくくられるようなものが輪郭定まってゆく過程でも、「耳で観る芝居」的要素は案外濃厚に意識されて創られていたようにおも。要検討お…

「文学」と呼びならわされている多様な表現の形式、と、その不自由・雑感

いわゆる「文学」と呼びならわされてきている多様な表現の形式――とりあえず話し言葉も含めての言葉を介してのものに限っておくけれども、それが「個人」の「創作」としてあたりまえに認識され定義されるようになってゆく過程の外側、〈それ以外〉の部分をどのよ…