繰り返して「読む」、こと

 本は読むためにある。だから、読んでしまった本は手放す。売れるものなら売る、求める人がいれば手渡す、そういう人がいる。

 同じ本を気にいれば何度も、時を経て後もなお、たまたまめくることになった程度でも、繰り返し読む癖の抜けない自分には、やはり縁の薄い、別世界に生きる人がたである。

 繰り返す、というのも実は正確ではないかもしれない。何度も通読するというのではない。眼についたところをつまみ読み、気まぐれのように拾い読みする、それを繰り返すだけのことだったりもする。その中でたまたま読んだことのある個所にふたたび出逢うこともある。

 その時の「発見」が味、なのだ。

 書かれた文字、印刷されている文章は同じでも、それを読むこちら側は、大げさに言えば別の人間、年齢も違えばものの見方考え方、価値観美意識喰い物の趣味からおんなの好み、そもそもおのが生身の身体の調子からしてもう違っているのだから、「読む」もまたかつてと同じわけがない。

 いわゆる「論文」――昨今だと最も厳格な意味での学術論文ということになるらしいが、そういう類の書きものなら、こういう「読む」の上演性、言わばその日その時その場所において立ち上がる独自性のようなものは意識されないだろうし、仮に意識されても単なる雑音、除去されるべき障害でしかないだろう。