ChatGPT と検索・メモ&雑感

 ChatGPTを検索と同じようなものだと勘違いして使っている様子を見かけてしまった。生成されたテキストの画像をソースとして引用している投稿があり、少し寒気がした。検索で出てくる情報がそのまま事実だと誤認する情報リテラシーの問題が、AI時代にはさらに複雑化していくというのはあるかもしれない


 「ChatGPTでも出てくるので、事実なのだろう」というニュアンスの文章があり、なかなかに衝撃的だった。検索や翻訳や生成がシームレスになったインターフェースの下では、たしかにこれらの違いを区別することが難しい人が現れてもおかしくはない。生成AIの仕組みに対する知識の不足も影響していそう


 画像生成AIでは「絵をミキサーに掛けてドロドロにしたもの」というミックスジュースに例えた誤った仕組みへのアナロジーが都市伝説的/陰謀論的に流布され広まっているが、テキスト生成ではこのような誤謬の存在があまり注目されてこなかったのは盲点かも、と思った。今後徐々に顕在化していきそう

 流石に御冗談であって欲しいですな…

 ヒョエーとなりました。現実は常に人々の想像を上回る…まぁAIの情報をはじめからそもそもすべて追いかけてないならそりゃそうなるかも、という納得感もうっすらありますね

 せめてソース元に当たるくらいはして欲しい所であったりしますが、怖い怖い…!仕事で使おうとしてもネット上に公開情報が無いモノだと見当違いの結論が出ちゃうので、それがデフォルトの様に扱われてしまうのは避けたいですね(´・ω・`)

 モニターに透過光で映し出されるものは、それが文字テキストであれ画像や動画であれ、眼から入る情報としてそのまま丸呑み、割と留保なしにまるっと信頼してしまうような感覚や意識のありようが、静かに浸透し始めているところもあるのかもしれない。

 音声はまた別なような気もするあたり、いろいろと要検討お題ではあるかも。

 YouTuber的な動画つきだからこそ、胡乱であやしげな内容でも丸呑みしてしまうけれども、それが音声だけならばまた受け取り方が違うのかも、とかいろいろと……

 「活字になってるものなら疑わずに信用してしまう」人が一定数いた(いる)事を考えれば、「まあそういう風になって行ってしまうのもむべなるかな(諦観)」という気も。

想像力を排除する方向に力が向くからでは?
小説→漫画だと
視覚情報が補完されます
落語や琵琶法師の語りでは個々に想像した風景が
アニメでは視覚情報として提供されます


もしかすると
『視覚情報として入るか否か?』でバイアスがかかるのではないかなぁとは

情報を摂取する経路よりも受動的に情報を摂取しているか否かという問題な気はします。
奇妙な生物の動画を見ていて違和感を覚えたらよく見ると異なる種の生物が全部同じリズムで動いてて、あっこれAI生成のフェイクだと気づいたりはするのですが、動画はだらだら眺めたりしやすいので危うい。

 確かに、映像情報の「現実性」には音声のそれとは種類の異なる何かが含まれているor何かが欠けている。例えば、反芻or記憶との照合の可否(あるいは容易性)など。映像が圧倒的と感じられるは、それを受け止める側のバッファ容量などが関係しているのかもしれない。音声は記憶のフィルタが効きやすいw


 ちなみに、ChatGPTは情報の接線(≒微分的な類似or近似性を重回帰的に調べた結果)を表している(ような感じw)。つまり、あくまでも「近似」であって、「事実(そのもの)」でないことに注意が必要。

 活字によって印刷された紙面の整い具合のもたらした衝撃というのは、自分ごととして思い返してみても、手を介した「書く」ことにもなぜか影響を受けていたような気がする。

 硬筆の習字を習わされていたのは、あれは小学校低学年の頃だったか、神戸に居た頃だったか、それともその後西宮に引っ越してからだったかは定かではないが、おそらく神戸だったような印象は漠然とあるから、もしそれが正しければ小学校1年か2年くらいのことになるけれども、あまりあてにはならない。ただ、何にせよ硬筆の習字の教室、塾のような座机にみんな坐って習わされるような場所だった。毛筆でなく硬筆だったのは珍しいかもしれない。おそらく製鉄所の秘書課にいて秘書業務をやっていた母親の判断だったのだろう。実際、ボケるまではきれいな手蹟のばあさんで、パーカーの万年筆とブルーブラックのインクは自分の愛用の筆記用具としていつも身近に置いていて、家計簿や日記もそれでこまめにつけていたし、年賀状や手紙のやりとりなどでも見てくれのいい筆蹟だった。

 で、その硬筆の習字で習った「書く」、鉛筆のBか2Bのやや柔らかめのものを手回しの鉛筆削りでとがらせるのが定法だったが、その手癖でノートへの筆記や、あるいは何でもない落書き程度のものでも、少なくとも文字を書く時には、活字の見てくれを雛型にしてどこか活字体のような文字を書くことを自分自身に課していたところがあったように思う。「きれいな」文字という、その基準が「活字のような」であったらしい。それは硬筆習字の「お手本」が「活字のような」ものであったからなのかどうか、そのへんは曖昧なのだが、いずれにしてもそういうレタリング的な、見た目見てくれの「きれいな」文字という意識が最初からあったのは確からしい。

 このへん、別途もう少し掘り下げてみなければならないお題が含まれているようには思うが、とりあえずモニタの話に戻すと、モニターに映し出される文字列の整い具合は、その活字体準拠な「きれいな」文字の記憶ときれいに重なるものではあるということ、そしてそれが眼から入ってくる情報としての文字テキストの「信頼」とどこかしっかり紐つけられているらしいこと、といったあたりが、この問いをほどいてゆく何らかの糸口になってくるように思う。

 本を読む時に、メモをとりながら読む習慣というのはいつ頃からついたものか、いずれにせよ「勉強」という作法と結び付いてのことだったのは間違いないだろうが、そのとったメモはメモである以上、そんなに「きれいな」文字で書くことを第一にできるはずもない。走り書きのようなもので、あとで自分自身で解読できるならばそれでいいもののはずだが、中学あたりまでは学校の授業のノートでも、できるだけ「きれいな」文字と「きれいな」見てくれでノートを「まとめる」ことを心がけていたような気もする。ノートを提出させるような授業があったかどうかはよく覚えていないが、その「きれいな」ノートを心がける意識というのは、どこかでそれを「見せる」ことを織り込んでいたゆえの意識であるはずで、その相手がどのような存在だったのか、自分自身が第一に設定されていたのだとしたら、その「見る」自分と「書く」自分との間がどのように関係づけられていたのか、などもまた、新たな問いとして浮かび上がってくる。*1

 たとえば、走り書きみたいな乱雑でランダムな文字列でテキストがモニターに映し出される仕様になっていたら、果してどうだろう。それこそ草書体とか崩し字とか、そういう感じで。ChatGPTなどの最近の新しいAIの活用の仕方については、まだ様子見で自分で試してみたこともほとんどないままだけれども、「使える」かどうか目算が立てられるまでは、こういう風にあれこれ「読む」「書く」「考える」の作法――これまでの活字と紙ベースで生成されてきたそれを準拠枠にしながら、立ち止まって留保して言語化しておくことくらいから始めるしかないと腹くくっている。

 手書き風ランダムな文字列でモニタ上に、それこそ手控えや備忘録、書き散らした走り書きのようなメモなどのありさまで「情報」が映し出されてくるような環境だと、さて、そのChatGPT的な「便利」(に思えるもの)は、どのように違和感や抵抗感、忌避感をいまどきのデジタル環境に特化、あるいはその環境ネイティヴリテラシーにとって醸し出してくるものだろうか。*2

*1: king-biscuit.hatenadiary.com

*2:……とまあ、例によってゆるく継続要審議のお題ではあるのだけれども。