「読む」作法の変貌・雑感

 文字をモニタに映して読む、という営みは今後、紙に印刷された活字の文字を読むこととは違うあり方になってゆくのだろうな、という予感。

 音声での入出力の精度があがって、文字を介して読み書きするのに近いレベルにまで音声でのやりとりが、デジタイズされた文字化記録含めてリアルタイムでできるようになれば、今でいう「書く]≒入力する際の文体なども激変してゆく可能性。

 映像情報を「見る」「眺める」あり方の側に同調してゆく「読む」の作法の未来。見ながら話して、聞いて、それが同時にデジタイズされた文字化記録としても記録されてゆく情報環境。わざわざ初手から「書く」≒入力することはされなくなり、話し言葉の音声話法が文字記録としてもデフォになるのか。

 とは言え、昨今のコロナ禍で「沈黙」「ミュート」を強制される度合いが高まっていることと、音声による発話のあり方への影響はどういう経緯をたどってゆくのか。コロナ禍が終息すればそれら発話のハードルはまだ以前のように復活するのか。

 モニタ画面との求められる距離がどんどん大きくなっているようで、そりゃ40インチもその上もある大画面を本邦ウサギ小屋環境で貼りついて観るのはしんどいのが道理とは言え、紙の活字の字ヅラに集中して読むための適性距離との身体的格差とその感覚はなにげに大きな変化をもたらしてゆく気がする。

 それは肉体的な老化に伴う「視力」の劣化、老眼だの近視乱視その他の条件の変化に伴う視聴力が低下してゆくことにどれだけ対応してゆけるのか、という問いも必然的に伴ってくる。

 「読む」作法が「集中」とある種の自閉・排他性とをセットで生身に要求していた経緯が、情報環境の変化によって変わりつつあるらしい現状。同じく「書く」についても同様に。

 24時間リアルタイムで「記録」が自動的に環境制御で行われる情報環境になってゆく過程。「環境」としてだけでなく、そこに生きて動いている生身の生体の「情報」なども含めて「記録」されてゆく可能性。

 チャイニーズ・デモクラシーの悪夢に含まれる将来的な可能性。

 「読む」ことによって作り上げられてしまっていた生身のありようとそこに宿る「主体」意識は、もとよりけったいなものではあったんだろうが、そのけったいさもまた情報環境との関係によって意味づけられ方も変わってゆく。

 「読む」作法が「集中」とある種の自閉・排他性とをセットで生身に要求していた経緯が、情報環境の変化によって変わりつつあるらしい現状。同じく「書く」についても同様に。

 「読む」ことによって作り上げられてしまっていた生身のありようとそこに宿る「主体」意識は、もとよりけったいなものではあったんだろうが、そのけったいさもまた情報環境との関係によって意味づけられ方も変わってゆく。

 いわゆるインテリ知識人と呼ばれてきたような生身のありよう、それは職業的な属性とかとはまた別に、一般的な読書人的なありようとまで広げて考えることが必要なわけで。

 未だうまく腑に落ちないままの、あの「おたく」と「サブカル」違いという問いのあたりも、おそらくそういう情報摂取のあり方とそれによって生成される生身の「主体」のあり方の関係の変遷に関わっているところはあるように感じている。ゆるく継続的に要検討なれど。