2018-10-01から1ヶ月間の記事一覧

ことばやもの言い、と「自分」との乖離・メモ

*1 ことばやもの言いが「自分」の制御下にある、という感覚が後退してきているらしいこと、そしてそれと共に、それらことばやもの言いとの関係において初めて「現実」の輪郭が確かめられるという感覚もまた希薄になってきているらしいこと。その結果として、「現…

「誰でも言えるやろこんなん」のbot化

新聞でも雑誌でも、もちろんテレビのコメンテーターなどでも、いずれメディアの舞台においてはとにかく「誰でも言えるやろこんなん」という範囲での、言わば定型ばかりが垂れ流されている。ひとりひとりその発言の主体は生身として別の個体であったとしても…

「公共」化してゆく「家事」・走り書き

*1 国民国家と家≒家庭の関係性。国家優先の図式を逆転した家≒家庭優先の論理図式の提示と家政学の必要を説く言説の19世紀後半の世界的同時代性。ネイション≒国民が国家という文脈における個人≒私≒家庭的日常の主体となり得るという考え方。戦後的個人が生物…

「玩物喪志」とおたくの初志

*1 デジタルコンテンツと化した「情報」のアーカイブの存在があたりまえの前提になっている昨今の「おたく」というのは、すでにかつてのおたくじゃないような気がする。いや、別に根拠とかリクツとかじゃなく、素朴な体感直観印象として。本やレコードやCDを…

そこにあるもの、でも/だからこそ「見えない」もの

使い捨ての日用品、たとえばビジネスホテルに備え付けられてある歯ブラシやカミソリなど、確かに日々そこにあり、便利に使いもしているようなものたち。それらにも、その質の善し悪しやそれらをもたらす技術の革新などが確かにあったはずだが、しかし、ある…

「おはなし」の生態系・雑感

「おはなし」が存在する/できる場なり関係なりの仕切りがなしくずしにgdgdになっていった経緯、ってのもあって、それがいろいろ悪さしとるところ、あるんだろうなぁ、いわゆる「歴史」認識のありようなんかにも(´・ω・`) #なんかいろいろ見させられとる昨今 虚構…

「自分」と「みんな」の間、その短絡・メモ

*1 なんかもう「自分」(という個人)の考えたことや感じたこと、ってのが自動的に「みんな」(というトーキョーエリジウム目線&感覚での最大公約数)と地続きになっとる人がたばかりがメディアの舞台であれこれもの言うたり書いたりコメントしたりしとるように…

「収集」と世界の果て、の関係について

*1 あらかじめ世界の果て、全貌が決められた上での収集と、そうでない収集との間にあるはずの、おそらく決定的かつ本質的な違いについて。あるいは、「学校化」ということの、おそらくはココロのありよう、ある種の意識の持ちように対する避け難い、しかしこれ…

「大学」と地元/地域の関係、その変わり方

大学、書店、古書店、映画館、喫茶店……あまり意識されていなかったのかも知れないのだが、それら〈知〉なり「文化」なりを宿してゆく(とされ/思われていた)具体的な装置の類は、いずれも実はある「地元/地域」の間尺で初めて十全に棲息できていたらしい。もう…

ショッピングモール、という経験

*1 むかしの日本にはイオンモールが無かったのでナイーブなひとたちはわざわざハワイのアラモアナSCまで出掛けて死にものぐるいで買物をしていました、イオンモールができると田舎の象徴とバカにし始めました、一度失った純朴さは元には戻りません。 https:/…

寺山修司と「大衆文化論」・ノート

「ぼくは日本語が言文一致しない間は、話しことばで書くことはとても難しい仕事だと思って、そのへんからやってみようとしたのです。子供の頃「少年倶楽部」を買って読むのはとてもうれしかったが、高校時代になって少し難解な本を読み出すと「少年倶楽部」を読…

「郊外」「ロードサイド」論の背景

*1 「ロードサイド」論(だか何だか)が少し流行ったのはあれ、やっぱり90年代のことだったか。それは「郊外」論としても現われてきていたけれども、いずれ主として都市化/郊外化と消費のありようのコモディティ化の脈絡でのことだったわけで、まあ、それはそれ…

「地方」「イナカ」「農山漁村」が存在しない「日本」像

*1 大衆社会の〈リアル〉を、自前でことばにしてゆくのでなく、それより先に洋モノ輸入品メガネを介してああでもないこうでもないと言い合う芸風、それはそれとして、同時に手もと足もとのポンニチ文脈でその「公共」なり「世間」なり何なりがどう維持され変…

年代論世代論、の有効性、およびその是非について

*1 80年代論みたいなものもちらほら出回り始めてるような昨今、しかし、かつてのような年代論や世代論の持っていた厚みや立体感みたいなものはなぜか稀薄な印象が強い。それらの議論へ向かうのには「なつかしいあの頃」というノスタルジーが駆動力になってい…

「学問」を成り立たせていた「戦後/昭和後期」の情報環境、のこと

*1 「学問」もまた、その時代の情報環境の内側でしか成り立たない、そういう面が否応なくあるらしいことを、ここにきて強く感じています、これまで以上に切実に、かつのっぴきならない同時代的問いとして。*2 とは言え、ひとまず文科系、いわゆる人文社会系と…