「自分」と「みんな」の間、その短絡・メモ

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 なんかもう「自分」(という個人)の考えたことや感じたこと、ってのが自動的に「みんな」(というトーキョーエリジウム目線&感覚での最大公約数)と地続きになっとる人がたばかりがメディアの舞台であれこれもの言うたり書いたりコメントしたりしとるようにしか見えなくなっている。Twitterで昨今にわかに話題になっている「社会学(者)問題」というのも、突き詰めたところだと実はある意味そういう症状、「自分」と「みんな」、「私」と「それ以外」の関係についての遠近法のありようのいまどき、に関わることだったりするらしい。

 それは、「話し合い」や「議論」「討論」その他の、いずれことばやもの言いを介した当たり前であるはずの手続きを踏んだところでその先、何かより良い結果など得られないようになっている――少なくとも最大公約数の気分としてそのように感じられるようになっているらしいこと、などとも当然、どこかで繋がっている問題なのだろう。

 このへん、まわりをある程度固めて見取り図だけでも描いておかねばならないと思うのだが、とりあえず眼前の印象としてずっとあるのは、たとえばそういう自明の前提で生きとる人がたというのがいまどきの「優秀」で「意識高い」のある典型になっていて、私的な発言がそのまま公的な「正義」として流通することがすでに自明の前提になっているらしいこと。そういう「正義」であり「正しいこと」をすらすら口にし、文字に置き換えて表明する/できる自分および自分たちのコミュニティこそが居心地の良いもので、その居心地の良さをわからず、だから認めもせずただ「嫉妬」で白眼視するような〈それ以外〉はひとくくりに何か「しるしつき」としてスティグマタイズされて「なかったこと」にされるのもまた効率的かつ超伝導的素早さで行われ処理されるという状態。そういう人がたが言い募る「社会」だの「公共」というのがさて、どういうものなのか、という、あたりのことも含めて、こういういまどきの社会的発言とその背後の発言主体の意識のありようからいろいろとほどけてわかってきたような気がしている。

*1:これまた例の「セカイ系」関連案件でもあり。「ロードサイド」「郊外」論関連案件でもあり、そしてもちろんことばやもの言いと〈リアル〉の関係に収斂してゆく足場のひとつでもあり。