個別具体と一般の間、のいまどき

無能記者 @MpbVbk
一般の人から見ると朝日新聞の記者はみんな左翼で産経新聞の記者はみんな右翼みたいに思われがちだけど、特定のイデオロギーを持ってる記者って少なくて大半の記者は上からの命令に従って走り回ってるだけの単なる労働者なんだよな。かく言う私も自社のイデオロギーに共感して入社したわじゃないし。


 例の呉座問題で署名した界隈が「そんなつもりはなかった」「そこまでやることに同意した人ばかりじゃないはず」「自分はやり方に抗議した」とかあれこれ後出しで言い訳しとったのとこれ、同じハコやでな。そりゃ常にそういう個々の事情はあるだろうが、問われとるのはそういうとこじゃないわな。

 世間一般その他おおぜいの視線や意識にさらされてしもとる時点で「同じハコ」と否応なしにみなされてしまう、そのことをどれだけ引き受けようとしながら、でもその「同じハコ」での特権や利権その他享受して仕事せにゃならんのか、ってことやわな。

 まともで誠実な仕事してきとる新聞記者、そりゃおるだろうし、自分にも何人かそういう知己はおるけれども、だからと言うていまどき新聞記者のそういう企業内社員としての世渡り自体、全部免罪するかというとそうはならんわな。それをたとえば「大学教員」にしても同じこと、自分ごとになるんやとおも。

 敢えて雑な広げ方するが、これ「男」や「女」にしても同じやろ。「そんな男ばかりじゃない」「女に理解のある男もいる、ほらここに」とか個別の事情でじきに言いたがる向きおるし、それが抗弁になるとおもとるんだろうが、そういうのがあの幻想の「理解ある彼」像と共犯の構造になっとるんだわな。

 要はぶっちゃけ「個別具体」と「一般」の関係な。個別具体の側を足場に一般化に歯止めかけるのは大事だし必要やが、と言うて、個別具体ばかりが自明に「正義」化してまうと、違う意味での「個別具体という一般」になって、あの「自分」の「おキモチ」原理主義発動になってゆくわな。

 何を表現しても「一般」の言葉やもの言いにしかならん、そういうビョーキを何とかしようとせんまま、単なる意匠・表象・記号(以下随意)としてだけ「個別具体」っぽいコピにしたところでそんなもん、なんも変わらんわな。たとえば一見改心したかに見えた最近のあずまんやらオトキタやら、信用できるか?

 「一般」の言葉やもの言い、ってのがわかりにくいなら、「他人事」の言葉やもの言い、でもええわな。except me で常に棚に上がったまま、自分だけは別のたてつけからものを言う、つまりエリジウム内一級市民サマがたならではの作法、とな。

 それに大方は気づいとらんか、気づいとっても知らん顔する、それが世渡りの合理性と自ら納得させとるんだろうが、でもしきれんところに隙あらば「被害者」「弱者」話法が漏れ出て言い訳してくるあたり、自身の生身がその「他人事」の言葉やもの言いに疎外されとることの表現なんやろうな、とおも。

 いまどき「勝ち組」「意識高い」エリジウムの住人になるためにゃ、そういう疎外の四六時中日常態に自ら帰依してゆかんならんらしくて、な。それにどこまで耐えられるか、生身の自分のその部分、かつて「実存」とかしちめんどくさい呼び方されとったような領域の始末のつけ方、鎮めかたも含めて、な。

 それって世俗通俗な現われ方としては、たとえば「性的」な部分としてわかりやすく現前化するらしくて、な。過剰に性的存在としての自分に過敏になる、「性癖」をことさら前景化して語るor見る、LGBT系のお題にばかり意識が合焦される、モテ/非モテでだけ人間関係裁断する……みんな同じハコに見える。