「庶民」の射程距離・メモ

 こないだの七五三の話もそうだけど、「庶民」を一様な存在としてとらえる考え方自体が現代の視点よね。「一般に普及」もどの程度まで普及した状態を「一般的」とみるか。


 天皇を知ってた庶民も多かったろうが知らない人だってけっこういただろう。七五三をやってた昭和の人たちはかなりいただろうが全員ではなかったはず。どちらを強調するかは当然ながら文脈によって異なる。

 この「一様」ということの中身、内実自体が、もしかしたらすでに平板で奥行のないものでしかなくなっている可能性も。

 辞書的な語義としては対極のはずの「多様」などもおそらく同様の事態になっているだろうが、本来個別具体の現実と紐付いた、あるいは付かざるを得ないような〈リアル〉の解釈下地みたいなものがあって、初めてその「多様」なり「一様」なりのもの言いの向こう側が自分事として「わかる」に向うことのできるベクトルが確保できるものなんだと思う。

 天皇を知らなかった庶民、というのが現実に存在したかどうか。時代によるとは言え、ひとまずここで想定されているだろう近世末このかたの近現代の間尺においては、素朴に考えてまずいなかったのでは、と思う。

 もちろん、それもまた、その「知る/知らない」という言葉の中身にも関わること、言うまでもない。理知的に合理的に客観的に(何でもいいが)「知る」ということだけでなく、それこそ想像や妄想、つくりごとの水準においても存在していて、といったような意味まで含めれば、何らかのかたちと水準において、「天皇」という存在――「キャラ」と敢えて言ってもいいかもだが、それはほとんどの当時の同時代に共有されていたもの、表象ではあっただろう。

 個別の事例と一般、の関係というのも、単なる言葉としてやりとりしている中では、意識の表層をすべってゆくだけになりがちだけれども、少し立ち止まって吟味してみれば、このような前提となっている枠組みや脳内風景みたいなものからまるで別ものだったりすることは、これまた当然ながら、普通にあることなんだろうな、と思いつつ、自省も込めて。