心理or意識の「古層」とか・雑感

 以前、鬱んなって、米国人と英国人のユング系の心理学者の治療を受けたのことがあんのやけど、その時、米国てキリスト教的な建て前の表土の下には岩盤しかあらへんのに対して、英国にはその下にやったらと豊穣な 古の文化の土が見えた気がした。


 後者のが僕にはしっくりきた。


 日本は現代思想の建て前の表土からところどころ古の豊穣な土が見え隠れしてる…
で、日本の「社会科学」て、現代性の中に見え隠れしてるそんなものを排除しようとする「社会改良運動」ぽく感じる…


 で、プロテスタントやった大学生頃の僕はそれを好ましく思たけど、僕の行ってた教会のドイツ帰りの牧師センセは僕のそんな姿勢を疎んじてはった。落語が好きな方で、情緒溢れるええ説教をしはってた。

 心理学というのは、それこそ大学の一般教養課程……あ、今はもうそんなのないか、いずれにせよ概論や入門程度のことしか習ったことはない、正規のいわゆる「教育」のたてつけでは。そのかわり、世間一般その他おおぜいの水準での「心理学」理解に地続きの知識や情報の類は、普通に身につけてしまってはいる。そういう条件で、極私的な「心理学」のイメージというのは、何よりその「心理」という単語でニンゲンのココロのありようを理解しようとする手癖習い性そのものに対する不信感、人の内面に手を突っ込んでくる気配への、しかもそのおためごかしっぽい印象が芳しいものではない。だから、カウンセリングの類にも胡散臭さしか持てないまま。対話だおしゃべりだと能書き垂れるのが半ば稼業のくせに、自分ごととなるとそういう関係や場に素直に身を委ねることは、かなり意識した上で、なおかつ時間や手間をかけないことには難しい。情けないと言えば情けない。

 だが、なにも「心理」とまで身構えずとも、人のココロやものの見方、感じ方の類という程度でいいなら、ここで触れられているような「古の文化」の「豊穣な土」とでも表現されるような何ものか、についての、気配くらいは感じることはある。まあ、人によっては「民俗」と言ったり、あるいは「文化の祖型」とか学術用語っぽく名づけたりするようなものかもしれない。ただ、何にせよそういう「古い」という属性は必ずまつわらせたくなるような、そんなものだ。*1

 年寄りや年配者との対面で感じるだけでもない、まだ若い、自分より年下の世代と接していても、そういうものは感じられることがある。もちろん、その当人たちがそうと自覚していることはまずないらしいのだが、でも、こちらがそう感じる何ものか、であることは確かだ。

 アメリカの社会というやつに、そのような「古い」という属性にまつわらせたくなるような何ものか、が存在しないとは思わない。人が生きて社会生活をある程度の歴史的な厚みを伴って営んできている以上、何らかのそのようなものはあり得る――いや、その裡に生きている者同士、相互に感じとられるものだろうとは思う。けれども、それが本邦のような、あるいはイギリスやヨーロッパの社会のような、どこでもいいが「歴史」的な堆積が分厚く関わってこざるを得ないような場所と、同じようなものかどうかは留保しておいてもいいような気もする。殊に、アメリカだと出自来歴の異なる民族、人種その他が混淆している社会のこと、その「古い」という属性自体にも、相互に異なる解釈枠組みを持った者同士のズレや違和はいくらでも出てくるだろうし、また誤読や誤解の類も、良し悪し別に介在してくる確率は高くなるだろう。

 本邦日本にしたところで、かつてあったはずの地域差、それぞれ生きる背景の違いによるそのようなズレや違和は、それなりにあったとは思うが、それでもなお、巷間言われて来ているような「島国」であり、かつ何らかの共通性の高い漠然とした気質、信心や願いなども含めた「らしさ」の地盤は、ある時代以降はそれなりにまとまりをつくりあげてきていたものらしい、というのも同時に認めざるを得ない、少なくともこれまでの本邦日本語を母語とする文脈でのさまざまな学術研究に類する営みの成果を俯瞰する限りは。

 ことば、が人の生きる現実、そこにまつわる〈リアル〉の水準を否応なしに規定するものであり、そしてそれが、どんなに技術が進歩し情報環境が変貌しても、生身の身体が介する話し言葉の水準が決して失われない以上、その〈リアル〉の水準もまた、常にうつろいゆくのが定めとなっている限り、その「古い」という属性にまつわらせたくなるような何ものか、というのもまた、うつろいゆくはずではある、リクツとしては。

 ここでいみじく触れられている「現代性の中に見え隠れしているそんなもの」を排除しようとする本邦「社会科学」(おそらく広義の人文系という理解で概ねいいのだろう) というのも、そのようなゆるやかに大きなたてつけの裡でまた、かろうじて輪郭を見せてくれているに過ぎないのだろうし、それもまた時代の流れや変化の裡でうつろいゆくものでもあるのだろう。と共に、それらの中でまた変わりにくいもの、というのがその位相、その時代において、それぞれの定めを生きる人がたの関係と場の裡に宿ってゆくのだろう。