合コンで「料理はされますか?」と聞かれ、こいつ私を食堂にするつもりか? と「逆に、されますか?」と聞き返すと
— しらぬい (@nui_acex) 2022年9月3日
「僕はコンビニやスーパーの弁当ばかりで……」と言われたので
「じゃあどうして私に料理をするか聞いたのですか?」とさらに聞いて微妙な空気にした過去。
合コンで「料理はされますか?」と聞かれ、こいつ私を食堂にするつもりか? と「逆に、されますか?」と聞き返すと「僕はコンビニやスーパーの弁当ばかりで……」と言われたので、「じゃあどうして私に料理をするか聞いたのですか?」とさらに聞いて微妙な空気にした過去。
20代前半のころは「価値観の合うパートナーを見つけるぞ!」とよく合コンに行っていたけど、なんかもう、向こうさんの、一緒に住んでセックスがしたいか家事をさせたいかみたいな欲望をいかに隠して釣るかが透け透けの騙し合いに疲れてもう数年行っていない。
何も肩肘張って「思想」だの「主義」だのと言わずとも、いまどき本邦おんなさんがた、概ね30代から下あたりくらいかな、いずれこういうフェミニズム的な認識枠がごくナチュラルに、「そういうもの」として普通に実装されてしまっているのだろう。だから、何でもない日常のありふれた局面においても、その認識枠がこのように稼動して、それぞれの内面にこういう具合に傷をつけてゆくという、ひとつの事例≒民俗資料として。
で、こういう認識枠を実装したまんま、「恋愛」や「婚活」に向けて「がんばる」ことも普通に起こっているわけで、そうなればもう、眼に映り耳に聞こえるあれこれ現実のよしなしごとの全てが、そのフェミ的認識枠に反応するようにもなる「まじめ」な人がたもそれなりの比率で存在しているわけで、それらの「おモキチ」を日常言語で吐き出すことのできる場もSNS以下、多様に準備されているいまどきの情報環境のこと、そこにまた「いいね」という承認欲求充足のコインがわらわらと集まってくるから、外見や立ち居振る舞いは特に変わらずとも、その内面≒「おキモチ」は日々そのような方向で常に波立ちさざめき、まあ、その、イライラやもやもやの類は途切れることはないのだろうな、と。
むかしのおんなの人はこんなこと感じなかったのかな?――この程度の留保や立ち止まり、というのもしなく/できなくなっているのだろうか。
たとえば、自分の母親でも先輩でも何でもいい、自分が「正しい」と思えるその認識枠にひっかかってくるようなイライラやもやもやについて、これまでのおんなさんがたは感じてこなかったんだろう、だってそんな勉強はさせてもらえなかったし、世の中自体がそんなこと言ったりすることのできないものだったし、そういう「自由」のない時代に生きていたんだから、気の毒だけれども仕方ないのよね――こんな感じで、自分の生きる〈いま・ここ〉とこれまでの歴史的経緯来歴とをあらかじめ切断してしまう仕組みは、何もフェミ関連でなくても、いわゆる思想なり学術研究なりの言語空間に素直にマジメにハマってゆくような人がたほど、自覚のないままこれまた実装されている認識のありようらしい。
だって、合コンに参加はしてきている、だから会話の糸口として自分に対して「料理はされますか?」的な声のかけられ方をするのは、まあ、普通にあるだろうし、またそれに対して「(゚Д゚)ハァ?」と思ったとしても、ひとまずそういうものとして受け入れるのが処世だろう。そりゃそう尋ねた相手のおとこ(でなくてもいいが)が自分の好みでなく、興味関心もひかないような第一印象であってもそれはそれ、だからといってそこから発して、結果「じゃあどうして(以下略)」に至るようなことばのキャッチボールをしてしまうことは、まあ、何というか、つきあいにくい人だな、と受け取られてしまうだろうし、その程度の予測も立てられないくらいに「社会性」に欠けている人なんだ、と判断されて、それ以上の関係の深まりは得られないだろう、そのことの良し悪しはともかく。
ああ、キツいなぁ、と嘆息してしまうのは、それでもなお、この人、「価値観のあうパートナー」を見つけること、を割と本気で考えているらしいこと。もちろんそれは「恋愛」をそのような「パートナー」を見つけて、できれば結婚に至ることまで含めて想定しているということなのだろうが、ただ、そのような可能性を感じさせてくれる(と、この人が思う)相手が仮に出現したとしても、そこから先、具体的な「関係」を持って、それを維持しながら互いの「自分」を照らし合わせながら信頼を深めてゆく、というしちめんどくさくて手間暇かかる過程をこの御仁、おそらく踏んでゆくだけの「覚悟」≒前向きなあきらめ、は、このままだと持てないままなんだろうな、と。
で、そんなのかったるくてキツいから、何か手早く早上がりに勝手に「確認」したいとなると、そりゃ「セックス」がその「関係」に対するひとつの判断材料としてことさら選択肢の上位にランクされてもくるんだろうな、と。そしてこれまたいまどきのこと、その「セックス」についてのおんなさんがたとしての認識も、少し前までとまるで変わってうっかり「開放」されてきている分、自分ごととしてあまり立ち止まって考えないでいいまま、「おキモチ」の「正しさ」まかせに踏み出してしまうようになっているところもあるはずだから、なおのことその「関係」の脈絡での意味づけや相互の「わかる」につながるような契機に届かないまま、行為だけが別の水準で加算され、その「関係」をますます不明瞭にしてゆく澱としてだけわだかまってゆく、と。
「セックス」と「家事」が突出して意識されているらしいこと。〈それ以外〉が「結婚」(という制度でもいいが)を維持してゆくことの裡には膨大に、個別具体のしちめんどくさいこととして含まれているらしいことは、おそらく想定外。いや、別に結婚や恋愛だけでなく、他人と結ぶ「関係」自体、あらかじめものすごく不自由で硬直したものとしてしか、この人は自分のものにしてこれなかったんじゃないのかな。いや、そりゃしんどいだろうしキツいのも間違いないだろうけれども、でもそのしんどさやキツさってのは、他でもないこの人自身の「そういうところ」に由来するものであるはずで、なのにそのことに穏当に気づいてゆける「関係」も「場」も、このままだとおそらく持てないままだろうな。
「ほったらかされる」こと、ちゃんと「かまってもらう」をされないままでいること、が蠱毒化の大きな理由なのだということに、どうやったら気づいてゆけるんだろうな。特に、いまどきの本邦の若い衆世代(でもないかもしれんが)のおんなさんがた、にとって。*1
*1:なんか関連しそうなお題がらみのあれこれ、このNOTESの中をざっとさらってみただけでも結構書いてた……自分でもあらためてびっくりしている。 king-biscuit.hatenadiary.com king-biscuit.hatenadiary.com king-biscuit.hatenadiary.com king-biscuit.hatenadiary.com king-biscuit.hatenadiary.com king-biscuit.hatenadiary.com king-biscuit.hatenadiary.com