坂本龍一 (&浅田彰)「天才」伝説・断片


 坂本龍一を撮ったのは二回だな。


 一度は登壇者として壇上の彼を袖から撮った。


 二度目は後藤さんとの対談を撮影した。その際に対談の中で「浅田さんの読書量ってスゴいよね。あんなに忙しいはずなのに、浅田さんって身体がいくつあるんだろう?」という話題が出たので対談が終わって撤収作業をしているときに、コメットのケーブルをたぐりながら「先程のお話ですが。私ながいこと inter Communicationの撮影を担当しておりまして。むかし編集部で先程のお話のような『浅田さんって何人いるんだろうね?』という話から、検証してみたことがあるんですよ」と話を振って<坂本さんはフフっと目を輝かせて「で?その時の結論は?」と乗ってきたので


 「8人いれば可能だという結論でした」と答えた。


 彼は嬉しそうに「8人かぁ。そうか。8人いるのかぁ」と笑った


 言葉をかわしたのはその時だけだな。


 お世話になりました

 「天才」伝説、というのは、近代このかた何度も繰り返し浮上しては、また消えてゆく。

 特に、人文系のそれは、文学なり学術研究なり、あるいは美術や芸術畑なり、そういう「天才」伝説を生み出す土壌として豊かなものになっているらしい、良し悪しはともかく。

 「アタマがいい」(と思われる)こと、「独創的」「個性的」で突出した「才能」がある(と思われる)こと、というのは、必ずその「そのように思われる」ことについての関数がからんで現前化している。で、その「そのように思われる」関数というのは、ゆるく言えば「評価」「評判」「価値判断」などの領分に否応なく関わってもくるわけで、となると、その時代その状況におけるさまざまな不確定要素、それこそ市場のあり方や社会的経済的事情などなど、あれこれ〈いま・ここ〉がらみの変数を全部ひっくるめたところで、あ、これは「天才」だ、ということになる――まあ、これもまた言わずもがな、あたりまえのことではあるだろう。

 それら「天才」(と思われる)が、ある分野なり領域なりに限らず、それが「天才」である以上、その本来の棲息領域を越えたところでも万能である(と思われる)ようになり、またそれが当の「天才」の側にもうっかりとフィード・バックされることで、「天才」のありよう自体が変わってきた経緯、というのもまた、すでに歴史的過程としてあるように思う。

 まあ、ぶっちゃけ、「天才」だから、何でもかんでも「正しい」ことを判断して、託宣してくれるんでね?、てな感じの、世間一般その他おおぜいの側からの過剰な、筋違いの期待というものが、ある時期からあたりまえのように「天才」に取り憑いてくるようになった、ということらしいのだが。

 坂本龍一浅田彰あたりは、そういう意味での「天才」(と思われる)キャラの、うっかり取り憑かれてくる世間一般その他おおぜいの勘違いと共に、商品として消費財wとして流通する/させられることのできた、もしかしたら最後のタマだったのかもしれない。「天才」伝説の歴史文化的背景も含めて、そのあたりのこともゆっくりと、そうと気づかれぬうちに、すでに「歴史」の過程に静かに織り込まれ始めている。
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