ポストモダンと「団塊」批判

 TLに流れてきたこんなtweet。気になったので備忘的に。

 ポストモダンな話、全てを相対化して解体した上で意味も価値も全て無にした後で全てを肯定する(なおそれだけの思索の果てに辿り着くのは最初の立ち位置と同じである。変わるのは自己の世界認識のみ)みたいな話ならブッダ的虚無を感じて好みだけど、実際には単なる便利な棍棒扱いな辺り、外道って感じ。

 「80年代的ポストモダン/価値相対主義」的なるもの、に対する呪詛や不信感が静かに広がっているのは感じている。おそらく、こちらはすでにジャーゴンと化している「団塊」批判やdisの気分とどこか地続きな感じと共に。で、おそらく割と重要だったりするのはこのあたり(´・ω・)つ

 今の50代後半のサブカル知識人が一斉に化石左翼に転向したのも、もう若い世代は連合赤軍事件を知らないから、だませると思ってるんだろうなあと。

 具体的かつ直接的には、町山智浩小田嶋隆あたりのTwitter等での最近の発言や立ち居振る舞いなどが想定されてのものだと思うけれども、このあたりは去年あたりからちょくちょく触れている「意識せざるもうひとつの歴史修正」ともどこかでつながる問題意識でもあり、そんなことより何よりこれ、まさにわが同世代の「アラカン50代新人類ポスモ価値相対主義サブカル刷り込み意識」のなれの果て問題、がそろそろ本格的に非難の矢面に立たされるようになってきたことのわかりやすい例だなぁ、ということであり。いずれにせよ、「世代論」を穏当に、役に立つように再度設定してゆく必要、というのはここでも、また。

 ひとまず、かつて呉智英夫子との対談というか、「団塊の世代」をめぐる言説とその位置づけなどをめぐってこちらから話を引き出すような形で立ち上がったものの、実際にお会いして数回にわたって話を聞き、録音を起こしてまとめて草稿にして、といった作業が概ね7~8割がた進んだところで、例によって諸般の事情で頓挫したまんまの単行本書籍企画の草稿の冒頭部分、いまどきの「団塊」論の陥穽についての認識を発掘して、叩き台として置いておく。カッコ内が呉智英夫子の発言。*1

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 ――最近、「団塊の世代」批判があちこちで出てきています。これまで綿々とあったようなコラムや随筆での漠然とした印象論や当てこすりのレベルでなく、言わば正規軍による正面戦というか、いわゆる論壇においてさえも、まともに論点として持ち出されてきている。

 たとえば先日、『諸君!』がいくつか狙い撃ちするかのような論文を並べてキャンペーンしてて、そことは違う脈絡であたしも原稿を書いていたんで、あたしなどもひっくるめて「団塊」批判の流れに位置づけられたりしてるようなんですが、それに対して呉智英さんも一言言わねば、という感じで参戦してきた。あそこで言われているような、そんな今の「団塊論」の多くは俗流に過ぎない、団塊の世代と同じパラダイムの上に乗っかったままの批判であってちっとも本質的じゃない、というのは、ああ、いかにも呉智英さんらしいな、と思うと共に、あの手の「団塊」批判にまつわる違和感はあたしもずっと感じていたところがあるんで、なるほど、とうなづくところがあったんですよ。

 なので、今回はひとつ呉智英さんにゆっくりそのへんのお話をうかがえればいいな、と思っています。まず、今言ったような俗流団塊論」がここにきて続々と出てきている、その理由というあたりから考えてみたいんですが。

 それはまず第一には、俗にいうところの「2007年問題」だろうね。企業にいる団塊社員が来年から一気に引退する。そういう社会的条件が前提にあるのは確かだろう。まあ、これは誰にもわかることだけどさ。

 

 第二には、社会を見る上でのグランドセオリーが、89年のベルリンの壁、91年のソ連の終焉による社会主義の崩壊によって消えてしまったから、そのあとに「団塊の世代」、「全共闘」という代わりのキーワードを置くことができないか、ということじゃないかな。

 

 特に、このところ「団塊論」を持ち出す若い人たち――具体的にはちょうど君ぐらいから少し下、三十代後半から四十代そこそこあたりの年まわりの人たちだけど、彼らの書いたものや発言を眺めていると、どうやらそういう風に思っているみたいなんだよね。なんだか知らないけど社会がよく見えなくなってしまった、どんどんわけのわからないことが起こっているけれども、これまでみたいに左右対立の図式を当てはめてそれらを理解しようとしても無理がある、そうだ、だったら新たに「団塊」をたたき台にして理論化すれば、何か説明できそうだ、といった誤解、もしくは幻想を持っているようなんだな。でも、私は何年も前から、それはまずいと思っていたんだけどね。

――あたしがずっと言ってる「戦後」「文科系」の終焉ともシンクロしてますね。〈いま・ここ〉のできごとを解釈するツールとしての文科系パラダイムが溶解してきたんで、若きインテリたちは目の前のできごとに対してうまい能書きが言えなくなった。だからそのストレスから半ば無意識のうちに、「団塊」という新たな解釈ツールを持ち出した、と。

 ならば、その解釈ツールとしての「団塊」を彼らが振り回すのがまずい理由というのは、どのへんになりますか。

 まず、戦後のある時代、少なくともこの約60年間がわからなくなってしまうということ、これが一番大きい。その中でも細かくいえば、特に左翼思想がこれまで果たした役割が、わからなくなっちゃってる。もちろん、これは現状として混在している功罪ともに含めての話だけどさ。

 

 過去のある時代を、それは駄目だと決めつけてしまうと、そこから議論が先に進まなくなるんだよ。上の世代に対する反発なんてものは、いつの時代にもある。いわば父と子の問題だよね。彼ら若い人たちは、自分の父親への反発を、期せずして普遍的課題というか歴史問題だと思い込んでいるみたいだけど、それは話が別だよ。そんなのいつの時代だってあるわけで、だから団塊の世代の問題を、単なる親子対立の問題に換言してしまうのは、非常にまずい。「世代論」と「団塊論」とは一緒にすべきでない。これが私の基本的立場だね。

*1:ちなみに、確か2006年頃だったと記憶する。版元は夏目書房の予定で作業していた。夫子に戻して手直ししてもらう段階の草稿は手もとにあるので、追ってまた少しずつ上げてみたい。できれば仕切り直しで刊行できればいいのだが……まあ、それは昨今の出版事情じゃ言うても詮無いこと、かと。