「先行業績」は「正解」ではない

「先行業績」とは「正解」ではない。

 なんか、いまどきの若い衆世代、それを初手から「正解」的にだけとらえとるような気がすごくしとる。

 それら「先行業績」個々の内容というだけでなく、それらが「業績」として乗っかってきた背景その他ひっくるめて、言葉本来の意味で「批判的」に見ようとすることが、実はでけんようになっとらん?

 それはもしかしたら、かつて言われとったような意味での「学史」がもう成り立ちにくくなっとったり、あるいはあまり共通基盤として意識されない/できないようになっとったり、などとも関係しとるような。

 「正解」だから「網羅しなければならない」という強迫観念ばかり肥大してたり、また、そういう風にガチガチに「(悪い意味での)マジメ一択」で構えてしまうと、それらが本当に「正解」なのかどうかといった相対化の視線は初手から排除されてもゆくわけで。

 「読まなくてもいいもの」や「読まない方がいいもの」の判別をしない/できない、あるいはさせてもらえないような縛りが無自覚含めてかかってしまっているような「関係」と「場」がすでにあるのかもしれんけれども。

 体裁の整え方、それこそ杓子定規な意味も含めての「論文」としての形式をきっちり守って、「不備」を突っ込まれないようにすることばかりにリソース使って消耗して、君は何を明らかにしたいのか、そもそも「わかる」へ向かう情熱がどこらへんにあるのか、と言いたくなる無職外道老害化石脳上等。

 「可能性の相において」評価する、批評する、という器量が個人のみならず、そもそもその学術研究だか何だかの「場」そのものから失われてきてしまった印象。「科学」基準で裁断しきれるわけもないいわゆる人文社会系でそれだと、そりゃ病むのがデフォになるしかないわな、と。