百鬼夜行的な想像力、ってのは明らかに「マチ≒市場」的な環境前提に宿り得るものとも思うんだが、それは日常に対する「制御」のありようが「市場」以前/以降と別のものになってゆく、その接点or過渡期の葛藤の表現だったりしたのかも知れず。
そして、いわゆる「かわいい」も、そのような「制御」からはずれていった過程、というのもあるとおも。それらがどうして「制御」されていた/しなければならないと思われていたのか、というあたりも含めて「歴史」のはずでな。
そんなものが日常にうっかりはみ出して遍在するようになって、そんなものに「かまける」ようになると日常がまわらなくなって、「そういうもの」として維持されていた秩序り制御下の現実がおかしくなってゆく、的な畏怖の感覚がそれらに対してあったはずで。
それらは、あの「萌え絵」に対する違和感、かつて日常にマンガ(の絵柄orキャラ)が広まり始めた頃の違和感、ともどこかで共通しとるところ、あるんかもしれん。何度か言及しとる&若い衆相手にゃいつも言うとる花森安治の「なにもかも漫画だらけ」にしても、本来日常にやたら存在感示すようになってくるはずのないもの、に対する違和感という部分もあったはずで、な。まあ、彼は「子どもの身のまわりのモノにはもっと気を遣えよ!」って論点で批判しとったんだけれども。
だから近年、何かと「ゾーニング」とかやたらドヤって振り回しとらす界隈、そもそも日常なり現実なりを「制御する」という意識や感覚がどうもあまり明確にあるとは言えんらしい本邦の、少なくとも近代このかたのありようとかどう認識されとるんだろ、とかいろいろと。意識はしとらんけど「そういうもの」という習い性習慣日々の繰り返し的な枠組みで、結果的に「制御」されとった、というところはどうもあったらしくはあるんだが、近代以前少なくとも幕末から明治初期あたりまでは。
70年代末から80年代あたりに「ロリコン」がインテリ知識人文化人っぽいシルシ、として「消費」wされるようになったのって、つまり「めんどくさい (セクシュアリティなどひっくるめた内面が) 人」のシルシとして使い回されていたフシ、あったよね。
【平沢進】パレード(歌詞付き)~映画「パプリカ」~