丸山真男に「感動」する若い衆世代

 丸山真男に初めて触れて感動しとる若い衆世代最近ちらほら眼にするが、理論や解釈枠組みの「あ、その通り」と思わせられる度合い「だけ」でうっかり感動する/できるようになる程度にゃすでに「歴史」の範疇に織り込まれてきとるんだなぁ、と

 同時代を生きていた世代が概ねあの世に逝くようになる頃から、その事象なりできごとなりは「歴史」に織り込まれてゆくみたいなんだが、その過程で必ずこういう同時代感覚を脱色された「歴史」ならではな解釈が前面化してきて結果的に「歴史修正」が行なわれ始める、という面があるようだわなぁ。

 「生き辛さ」や「ムラ的同調圧力」やらいずれそういう〈いま・ここ〉に感じられているモヤモヤに対する解釈を何やら大きな理論なり解釈枠組みなりで権威づけてくれるような便利さがそれら「感動」の内実だったりするかも知れんのだが、そのへんの留保や立ち止まりはなかなかしにくいようで、な……

 そういう留保がうまくでけんまんま「感動」任せに取り込まれてゆくと、そりゃもう簡単に「日本」だの「伝統」だののさらなる大文字に「どんどんしまわれちゃう」ような気がする、悪い意味で。丸山真男読むなら橋川文三や神島二郎あたりもちゃんと併せ読んだ方が、あの「大文字」っぷりの弊害もそれなりにうまく中和なり相対化なりできるんと違うやろか。

 ああいうある時期までインテリ知識人話法としての「大文字」っぷりに対して、時代がぐるっとまわった現在だと、かえって違和感嫌悪感不信感その他まるっとすっ飛ばしたところで今様「意識高い」「優秀」話法と短絡直結しやすくなっとるところ、ぜったいあるんやと思うとる。

 前から問題にしとるいまどきあるあるな「善意&優秀ごかしのもうひとつの歴史修正主義」の胚胎する培養基というか土壌みたいなもんとも関わっとるはずで、な。