「話し合い」「対話」「議論」で何か事態が好転したり問題が解決したりした経験、あの小学校の教室このかた、まずないままのような気がしている。そういう「学校」における「話し合い」のやり方やその場の雰囲気、そこで使い回される言葉やもの言いなども全部ひっくるめての「そういうもの」に対する、かなり根の深い違和感、不信感として。
そういう「話し合い」系の場で使われる言葉やもの言い、しぐさなどは、それら「学校」の価値観――いや、もっと絞り込んで言うなら「教師」「先生」という一点透視的な光源に照らし出されて可視化される何らかの世界の「そういうもの」に、どうも抵抗なくなじんでゆく/ゆけることの証明でもあった。そしてそれは、そのような言葉やしぐさで、そういう価値観に沿った「きれいごと」をうまく切り貼りモザイクにしながら平然と、さもさもそれだけが「正しい」ことのようにして提示してくる人がた、に対する不信感でもある。まあ、ひらたく言ってしまえば「いい子」「優等生」「ティーチャーズ・ペット」的な存在に対するムカつき方、にもつながるものだったろう。
だから、ものすごく雑に一般化通俗化した形としてならば、「口のうまいやつにはかなわない」「頭のいいやつはあんなもん」的な、昔から根深くどんよりと世間一般その他おおぜいの間に澱んでいる「反知性主義」(敢えて誤用)的気分にもつながるものではあると思う。そのようなある種の言葉やもの言いと、それを平然と駆使する/できる者たちへの、鈍いけれども本質的な反感。大風呂敷広げるならば、「近代」をわかりやすく現前化してゆく書き言葉/文字的な〈リアル〉に浸透、制圧されてゆく、日常生活の現実を統御、編制していた話しことばの〈リアル〉の側からの根源的な反発、抵抗感でもあっただろうことも含めて、言うまでもなく。
違う角度から言えば、それは「政治」に対する理解が雑なままになっていることとも関わっている。言葉という道具を現実を制御するために、つまり他人との関係を調整し、関係によって織りなされ成り立っている場を何らか望ましい形(自分の利害も当然含めて)に制御してゆくための最も本質的なツール、という前提で認識できていないままゆえのバグというか。そしてそれは、そのような道具やツールとして手もと足もとで抑え込んで「使う」というこちら側、つまり「主体」の輪郭も同時にくっきりしたものにしてゆく過程もあいまいにしてゆく合併症も併発して、ということと共に。
そもそもそういう稽古の場、そのような言葉の使い方を実地に学べる演習場としても「学校」はあるはずなんだが、その「学校」においてまず「言葉」と「政治」の関係がそういう「話し合い」的な不自由や窮屈、どうしようもない抑圧としてしか現前化されていないままだと、そりゃそうなるわな、としか。
そのような「きれいごと」をどれだけうまく提示できるか、という意味での「話し合い」しか認識できないままだと、その場から疎外される〈それ以外〉の部分、つまり個々のもやもや鬱憤、不満など、つまり「おキモチ」が常に身の裡にわだかまった状態になるわけで。で、それはあの「おキモチ」原理主義な界隈だけのことでもなく、それこそ「平等」に、「学校」をくぐってきた人がた本邦同胞ひとしなみに。
また同時に、「学校」が本来そのような、日常生活ではあまり意識されないしそのように活用されることも乏しい言葉やもの言いの使い方を稽古する場である、というたてつけも、その「学校」以外の場所が担保されていて初めてうまく機能するものだったはず。いわゆる「家庭」もそうだが、それだけでなくまさに子どもの世間、橋本治や堀切直人が言っていたような意味での「原っぱ」「空き地」の存在のあらためての大事さ。
まあ、いわゆる悪口陰口罵詈雑言の類にしても、そのようなわだかまりがガス圧となって発射暴発されるものでもあったりするわけだが。そしてそれが、「きれいごと」エリジウム空間においては「誹謗中傷」とだけ変換、翻訳されてゆくものでもあるらしいが。そこには関係と場、そのような生身の実存介して現前している空間がきれいに「なかったこと」にされるわけで。つまり「芸」とくくってもいいような身体性、相互性の機微、ある種の審美的wなものさしも含めたふくらみの裡にやりとりされる解釈の水準もまた、きれいに「なかったこと」にされるわけで。「おキモチ至上原理主義」界隈が硬直して「シャレが通じない」というのも、そういう文脈からはまあ、必然っちゃ必然のワヤなんだろう、と。 「芸」(とここも敢えて言っておくが)がない、「シャレ」が通じない、というのは相互に解読のための約束ごと、難しく言えばコードが共有されていないから起こるわけで、そういう意味ではすでに立派に「文化が異なる」相手ということにもなる。
まあ、ならばその「学校」で稽古されるべき「政治」の場での立ち居振る舞い、言葉やもの言いにおいて、それら「芸」や「シャレ」といった部分はどのように組み込まれ得るのか、というのもまた、別途考えねばならないお題ではあるんだろうが、でもそれは開き直って言うなら、生身の実存介した話しことばのやりとりが本来のありようで担保されているのなら、程度や質の濃淡はあれど、そして何らかの制御はあれど、全く「なかったこと」にして運用できるようなものでもないはずなのだが。
このへんは、国会における「ヤジ」「怒号」の類――「不規則発言」とひとくくりにされ「議事録」からはあらかじめ「なかったこと」にされて「記録」されないものだろうが、公式に「記録」されずとも、その「記録」が生成される現場においてそれらがどのような役割、機能、立ち位置を占めて、その「場」とそれを成り立たせていた生身も含めた「関係」を編制していたのか、といった部分の認識まで、あらかじめ「なかったこと」にしておいたままの「政治」理解が、闊達で自然なものであるはずもない。このあたりは継続審議のお題として、また別途。*1
小学校の学級会や帰りの会等で「自分の気に食わないクラスメートが何かやらかしたら関係ないような小さなことまで槍玉にあげて吊し上げ、泣くまで追い詰めて恥をかかせる」なんて事を最高の快楽と受け止めた人が大きくなったとしたら、確かにまともな「話し合い」ができるとは感じないな。
「話し合い」なんて道徳的優位性を補強するためのお約束に過ぎず、糾弾するための即席の舞台に過ぎないですからね…。
……ふと思ったのですが、自身を「正しい」と疑わないから他者を「裁く真似事」をしたがるのかな…?
小学校時代の「話し合い」て、大人決めたことを一方的に押し付けることを「話し合って決めた」言われるので、もんのすごい不信感があった…
話し合いというのは双方に後ろ盾があるから成立するのであり、それがない場合は一方的に要求を飲まされる蹂躙や陵辱を正当化する為の茶番劇に成り下がります。