「弱者」「当事者」という甘え・メモ

 これは本当に一般論ながら、『自分は弱い立場なんだから「強い」相手には何を言っても、しても許される』みたいな考えに陥るのは非常に危険だと思う。


 誰もが陥るリスクがあるからこそ、改めて言っておこうと思う。


 というのも最近は、デマ拡散などを正当化する言い訳が尽き果てた相手の最後の言い分が『こんな弱小アカウントに著書まである実名ジャーナリストが本気で反論するなんて』的なことを言われる機会が多いことが少し気になっている。


 もしかして、テレビに向かって野次を飛ばす感覚なんだろうか?


 「弱者には配慮されるべき」の考えが、いつのまにか「弱者には配慮されて当然」に変わり、「弱者」を自認していればさまざまな免除や特権が得られたり、反撃の標的から逸れるかのような錯覚に陥るのだろうか。


 『強い(とみなした)相手は自分よりも「人格者」であり、「配慮」「免除」「譲歩」を自分に与えて当然』という、攻撃しておきながら攻撃相手に完全に甘え切った認識は、非常に危険だ。


 たぶん、こういうのも「平和ボケ」と呼ばれる現象の一つなのだと思う。


 その延長線上に、たとえばALPS処理水にせよ『科学的事実や知見、世界中のあらゆる専門家や専門機関よりも自分の「お気持ち」や判断が配慮や尊重、優先されて当然』であるかのような、様々な社会問題を拗らせ社会に多大な負担と損失を与える、エゴが肥大化した層の増加がある。


 結局、この問題を解決していくには「弱者」を隠れ蓑にすれば無敵でいられるような、配慮や利益をほしいままに出来るような幻想と成功体験を完膚なきまでに打ち砕くしかない。


 とはいえ、それによって本来は配慮を必要とする人々までもが不利益を被るリスクも大きい。


 いかに「弱者性」「当事者性」を搾取し利益を得る活動家やエゴイストだけを打ち砕き、巻き添えにされる当事者を少なくするか。

。。。なんだか、素人ながらがん治療のイメージに近い気がしてきたな。


 いずれにせよ、東電原発事故問題においては『「風評加害」という概念』が多くの活動家の本性と正体、その詭弁性を炙り出しにした。


 こうしたアプローチは、様々な社会問題で試みていくべきと思う。