我々は宝飾品ではない――暇空案件に寄せて

 暇空さん案件について、ワイは元全解連部落民であるしワシの子や孫に差別は元よりかつての運動手法の影の部分などが悪影響を残すようなことがあってはならぬし、我らは皆と同じ、一雫の水の一滴になりたいのであって、悪意と欲の一雫どころが汚濁に子らの未来が穢されることだけは避けたい、という


 数年前から、特に震災後の各種運動のありよう、いま正に共産党の地方選ビラにすら先頭に我々部落は当然だろうが憲法9条も押しのけてジェンダーの文字をおく情勢の中、もしかしたら地方過疎地の部落問題は流れ去るかという淡い期待を抱く我らに突き刺さる危機感は御理解いただけようか?


 我々被差別者は、また社会的弱者は、他人の自己承認欲求、自己実現欲求、正義感、その他の感情的欲望を満たすための道具ではない。今一度、そのことをハッキリと被差別者は口にする必要がある、と感じる。自分の人生の実現は、あくまで自己の中でやってくれ。我々は宝飾品ではない。


 たった一人、良い男が大立ち回りを演じている。観よう、その先を。見て、観て、魅てしまわんと。


 付け加えて一つ。暇空界隈は異常であるからカウンセリングや治療を受けるべきという言説。軽口であろうか。さて、そのような言説を我々被差別部落民も劣後するものとして受け続けてきたわけである。かつての倫理観を現代の…という案件は良くあるが、さて、果たしてどのような心持ちで言ったのか?さて